「奏ちゃん……どうしよう」
泣きそうな顔をした芽太が俺の布団に潜り込んできたのは、同居してから三度目の秋の夜だった。
「ん……芽太?」
「せいちゃんがてつ君にいじめられてるの」
「父さんに?」
それを聞いてすぐに有り得ないと思った。自分の父親は、憑りつかれたように芽太の兄に優しいからだ。
けれど、この世の終わりみたいな顔をしている芽太を放っておくことも出来ず、仕方なく起き上がる。
震える細い指を握って「行こう」と電気の消えた暗い廊下を歩いた。
二人の寝室は階段を下りた一階にある。僅かに開くドアの奥を覗くと、舌の根が弛んだ聖夜の声が聞こえてきた。
「んっ、あ、あッ、ぁあ」
怖いくらいに軋むベッドの上で、彼が泣いているのがすぐに分かった。なぜか裸になった父親は、馬乗りのまま体を揺するのを止めない。
狂気じみた二人の様子に、奏一も思わず絶句した。隣で蒼白になった芽太は、大きな目に涙をいっぱい溜めている。
「奏ちゃん」
「……っ、待って」
しかし奏一には見覚えがあった。
まだ母親が生きていた頃、同じ状況に遭遇したことがあって、子供は口出しできないと直感していた。
「芽太、行かない方がいい」
「で、でも……うっ、えっく」
とうとう泣き始めてしまった芽太を、どうしようもなくなって抱きしめる。
父と聖夜が普通の友人でないことを悟ったのは、その時だった。
勘のいい芽太も、後日二人の関係に気づいたらしい。急に態度がよそよそしくなったのもそれからだ。
どうやら自分たちの存在に引け目を感じたようで、それまで「奏ちゃん、奏ちゃん」と構いすぎるくらいだったのに、元気を無くしてしまった。
正直、寂しかった。
何をするにも隣にいて世話を焼いてくれた芽太が、変わってしまったのだから。
けれど、次第に濁っていく芽太の瞳を見ると、何か間違えた途端に嫌われてしまう気がした。
この息苦しい家から離れたい。
奏一にとって帝国隊を志望することは、都合のいい理由となった。
幸運なことに、もともと射撃が得意だったので、知り合いの月輝の斡旋や、調査班から熱烈な歓迎を受ける事ができた。
この三年間で萎んでいた自分のプライドも蘇り、無事に帝国隊へ入隊出来る見通しもついた。
もう、今までの自分とは違う。
父と聖夜と――芽太とも、自然に話せるに違いない。
根拠のない自信だったが、帝国生として積み上げてきた経験が奏一にそう思わせたのだ。
『次は、C区大通り前、C区大通り前……』
「……っ、」
バスに揺られて転た寝をしていた奏一は、慌てて下車ボタンを押した。窓の外は、いつのまにか懐かしい景色に変わっている。
帰郷といえば大袈裟な気もしたが、それほどケージと一般居住区の様子は違う。
次第に緊張してくる自分に気がつきながら、誤魔化すように荷物をまとめると、席を立ち上がった。
バス停を降り、アネモネが揺れる階段を上った先にある古民家が、奏一の家だ。花の好きな芽太が手入れしている庭には、ワレモコウやセージが咲いている。
鄙びた門を入るとすぐに、いっぱいのコスモスに水を撒く芽太を見つけた。
情けない事に、かける言葉に詰まった。
芽太と最後に会話したのは、去年の夏。担当していた避難シェルターで偶然鉢合わせたのだが、他人行儀な会話を二言三言交わしたくらいだった。
くそ、今更怖じ気づくなんてどうかしている。何のためにここまで帰ってきたと思って――
「奏ちゃん……?」
声をかけるよりも先に気がついた芽太が、琥珀の瞳を見開いた。
泣いたみたいな、苦しい声。
秋風に乱れる蜂蜜色の髪を指先で直した芽太は、寂しそうに笑った。
「お帰り」
「……ただいま」
続かない会話に、会わない時間の長さが滲み出る。
一体俺は、何を勘違いしていたのだろう。
もう、とっくに手遅れだったのだ。
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