「名字さん、私と結婚してくれませんか」
「…はい、もちろんです」
そんな風に囁きあってから数日後、私は土井さんの家の前に立っていた。
土井さんは早くにご両親を亡くされていてずっと土井さんと次男のタカ丸くんの二人で弟さん達の面倒を見てきたのだという。
今日はその弟さん達へのご挨拶にやってきていた。
弟さん達に認めてもらうため、絶対に失敗は出来ない。
手に持ったバックをぎゅっと握りしめて深呼吸をして、考えてきた挨拶を頭の中で復習する。
うう、だめだ、上手く行く気がしない。
「名字さん、緊張しています?」
「…ねえ土井さん、やっぱり一緒に住みたいだなんてみなさん嫌がるんじゃないかしら?」
「大丈夫ですよ。私からももう話してありますし、嫌がったりなんかしていませんでした」
「本当に?…ああダメ、やっぱり緊張で中に入れそうにないわ」
「本当に心配いりません。…ほら、私が手を握っていますから」
そう言って土井さんの大きな手が私の手をぎゅっと握った。
そうするとそこからじんわりした熱が広がって、不思議と気持ちが落ち着いてくる。
「落ち着きましたか?」
「…少しだけ」
「ふふ、じゃあ行きましょう」
「はい」
私を導くように先を歩く土井さんに手を引かれ、ようやく前に一歩踏み出す。
玄関前の小さな階段を上がってしまえばもう土井さんは玄関の戸に手をかけていた。
ごくりと唾を飲み込んで土井さんと繋いだ手に力を込める。
土井さんに笑われてしまった気がするけどそれを気にしてる余裕はなかった。
「みんな、ただいま!」
「お邪魔します…」
蚊の鳴くような声でなんとか言って、土井さんと手を繋いだまま玄関を上がらせてもらう。
奥からはおかえりという男の子達の声が聞こえていて私の緊張はますます高まってしまった。
「大丈夫、深呼吸して」
部屋に入る直前、優しい声で言ってくれた土井さんに頷いて小さく深呼吸。
もう一度、と促されて今度は少し大きく深呼吸をすればよくできました、なんて微笑まれてしまった。
「さあ、行きますよ」
「は、はい」
土井さんがかちゃりと開けたドアの音がやけに大きく聞こえて、泣き出しそうな気持ちのまま私はリビングへ足を踏み入れた。
「みんな、私の奥さんになる名字名前さんだ」
「は、初めまして、名字名前です」
ぺこりと頭を下げて、なんとかそれだけ言うと弟さん達は口々に初めまして、と返してくれる。
よ、よし、とりあえず自己紹介は出来た…!
「名字さん、俺は次男のタカ丸です。美容師をやってます。これからよろしくお願いしまあす」
「三男の兵助、高二です。よろしくお願いします」
「…三郎次です」
「末っ子の伊助です!仲良くして下さい!」
美容師というだけあって派手な髪色のタカ丸くん、真面目そうな兵助くん、ふてくされた表情の三郎次くん、元気いっぱいの伊助くん、それぞれ個性豊かな四人が順番に挨拶をしてくれて、私はなんだか恐縮してしまう。
「あ、ええと、その、ふ、不束者ですがよろしくお願い致します」
「名字さん、不束者ってどういう意味ですか?」
「えっ!?」
恐縮しながらなんとか絞り出した挨拶へ伊助くんからまさかの突っ込みを受けてしまって、私は混乱してしまう。
ふ、不束者の意味!?
意味って、ええと、不束者は不束者だよね!?
どど、どうしよう!?
「不束者とは配慮が行きとどかないことや気がきかないことを言う。実際にそうでなくとも嫁入りする家の家人に不束者ですが、と挨拶として言うものなんだ」
「へえ、そうなんだ」
さすがは小学校の教師…助かりました、土井さん。
土井さんのフォローにほっとして胸を撫で下ろすと、土井さんは苦笑いとウインクを送ってくれた。
「名字さん、名字さんはこの家に一緒に住むって聞いたんですけど、本当ですか?」
「は、はい…そのつもりです」
タカ丸くんの質問に頷いてみせれば、タカ丸くんは少し難しい顔したあとうーん、とうなった。
「正直に言ってこの家は新婚生活には向いてないと思います。弟達がいるし、いきなり子どもが出来るようなものですよ?」
「…それでも私、土井さんと一緒にこの家で、土井さんの守りたいものを守っていきたいと思うんです」
土井さんが何より大切にしている家族を置いてこの家を出るなんて絶対にありえない。
だけど私だって土井さんと一緒にいたい。
それなら私がこの家に住ませてもらうのが一番だと、そう思う。
弟さん達がどう思うかは分からないけど、私はこの家に住めないのなら土井さんとは結婚できないとさえ思っているのだ。
「だから、どうか私がここに住む事を許してもらえないでしょうか」
頭を下げてそうお願いすると、タカ丸くん、兵助くん、伊助くんの視線が一斉に三郎次くんに集まった。
三郎次くんはその視線から逃げるように俯いたまま黙っている。
「…だってさ、三郎次。どうなんだ?」
仕方ないなあという風に兵助くんがそう投げかけると、三郎次くんはむすっとした顔を上げて私をきっと睨みつけた。
「結婚だろうがここに住むのだろうが勝手にしろよ!バーカ!」
「なっ、三郎次!名字さんに何て口の効き方をするんだ!」
「知るか!俺もう遊びに行くから!」
「三郎次!」
土井さんの引き止める声もなんのその、三郎次くんはあっという間にリビングから姿を消して、すぐに玄関が勢いよく閉まる音が盛大に響いた。
「…ええと、」
「すみません、名字さん。三郎次は素直じゃないだけなんです。…本当は名字さんが来るの、あいつが一番楽しみにしてたんですよ」
「そうそう。三郎次はツンデレだから気にしないでいいですよー」
「反抗期ってやつだな」
「僕、カレンダーに丸付けてたの三郎次だって知ってるよ」
…それは、つまり。
「ほら、言った通り、大丈夫だったでしょう?名字さんは何にも心配しないで我が家に来てくれていいんです」
「…っ、はいっ!みなさん、これからよろしくお願いします!」
勢いよく頭を下げた私と、土井家のみんなの新しい毎日が今、始まる。