月が綺麗ですね。
トイレを済ませた帰り道、空を見上げれば見事に丸い満月が浮かんでいて、夏目漱石が残した有名な愛の言葉が頭に浮かぶ。
きっと漱石がイメージした月もこんな満月だったんだろう。
そんな風に思ってしまうぐらい綺麗な月をその場に立ち尽くしてぼんやり眺める。
無駄な明かりがないこの時代では現代とは比べ物にならないほど月の光が強く見えた。
これなら月に狂わされるなんて言葉も納得できる気がするというものだ。
まあ実際に満月の夜は殺人事件が増えるというし、あながち間違いでもないのかもしれない。
満月だからって人を殺していいって訳じゃないけども。

「おや、名前さん?」

月を見上げながらそんなくだらない思考で頭を埋めていると聞き慣れた声に話しかけられて廊下の向こうへ目を凝らす。
明るすぎる月を見ていたせいかぼんやりして見える廊下の奥から優しい笑みと共に現れたのは見慣れた人物だった。

「土井先生、こんばんは」
「こんばんは。こんなところでどうなさったんですか?」
「ちょっと月を見ていたんです」
「ああ、今夜は満月ですからね」
「ええ、すごく明るいなあと」

もう一度月を見上げてそう言えば、土井先生は難しい顔で頷いた。

「忍者にとっては嫌な夜です。…五年生が実習なんですが心配ですね」
「ああ、そっか、見つかりやすくなっちゃいますよね…。大丈夫かな」

一般人の私にとってはただの綺麗な満月でも、忍者やそのたまご達にとっては天敵らしい。
まあ人目を忍んで敵の城に侵入する事を考えたら当たり前だろう。
忍び込むなら暗い夜の方が安全だ。

しかしこんな夜にも実習だなんて大変だな忍たま。
それともこういう夜だからあえての実習なのか。
戦をする時に明るいから忍び込めませんなんて言ってられないだろうし。

「…無事に帰ってくるといいですね」
「ええ本当に」

深く頷いてから土井先生はまた空を見上げた。
私もそんな土井先生につられて空を見上げればゆっくり流れてきた雲が微かに満月にかかっていてこういうのを風流とか言うんだろうと思う。

「…月、綺麗ですね」
「えっ、」

土井先生の言葉に驚いて月から先生へ視線を移せば、土井先生は優しい目で私を見ていた。
それは熱のこもった、愛おしいものを見つめる目。
…天女補正に引っかかった、目。

「あ、ええと、こんなところで長話してたら風邪をひいてしまいますね。そろそろ失礼し、」

ます、という最後の部分はぐらりと体が揺れたせいで喉の奥に引っ込んでいった。
体制を崩した原因は土井先生の手。
予想外に大きい先生の手は私の手をしっかり掴んでいて、離さないと言わんばかりに強く握りしめられている。

「逃げないで下さい」
「…逃げてなんか、」
「逃げてます。あなたはいつでも」

咎めるようにそう言ったあと、土井先生はもう一度消えそうな声で逃げないで下さいと繰り返す。

「…手、離して下さい」
「離したらあなたは行ってしまうでしょう」

そりゃそうだ、とは流石に言えずに黙り込めば土井先生は小さく息を吐いてから名前さん、と私を呼ぶ。

「……何ですか」

せめてもの抵抗に思い切り間を空けて答えると、土井先生が笑ったような気配を感じる。

「困らせるような事をして申し訳ありません。…ただ、少し不安になってしまって」
「不安?」
「月を見上げるあなたが消えてしまいそうに見えたんです。…天女は、空へ帰るものでしょう」
「…私、天女じゃないので分かりません。帰り方も、全然分からないです」

月を見てるだけでそんな心配をするなんて昔の人間は情緒豊かで大変だな。
いや天女補正のせいでこんな感じなのかもしれないけど。
だとしたら正気に戻った時に自分のロマンチスト発言で憤死してしまいそうだ。
ご愁傷様です、先生。

まあそれはそれとしてこの手をとっとと離して貰って部屋に戻りたい。
初恋泥棒といちゃついてるなんて誤解を受けたらとんでもない事態になりそうだ。
きっとくのたまにも土井先生に初恋を盗まれた女の子の一人や二人いるに違いない。
そんなくのたまにもしもしこの状況が知れたら…考えるだけで恐ろしい。

「あのー…そろそろ寝る時間なので部屋に戻りたいんですが」

くのたまにぼっこぼこに叩きのめされる自分を頭に思い浮かべて戦慄しつつ何とかそう言えば、思いのほかあっさり私の手は解放された。

「…本当に、困らせて申し訳ありませんでした」
「いえ、大丈夫です」

そう答えながら頭を下げようと振り返った私だったけど、振り返った先にはもう誰も立っていなかった。

…まさか、幽霊だったとかじゃないよね?
少しばかりぞっとしながら掴まれていた手を撫でる。あの強く握りしめられた感触は本物だった…と思う。

「…月が綺麗ですね、か」

もう一度明るすぎる月を見ながらそう呟いてため息をつく。
さすが初恋泥棒、オタク女子のハートをかっさらうのもお手の物だなちくしょう。
心の中で悪態をついてみたけど顔に集まった熱はどうにもごまかせそうになかった。

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