あかりがまぶしい
04
 今日は疲れた。
 折角の一日のバイトにはほとんど出ずに終わってしまった。佐倉部長が帰ってすぐに店長に謝りに行った。店長は笑って、

「大丈夫、大丈夫。給料から引いておくから」

 なんて言うから驚いた。冗談だったらしい。本当に良かった。
 帰り道、あの話を思い出す。佐倉部長の顔を思い出す。いつか見た夢を思い出す。

「今日はためになるお話を、ありがとうございました」

 帰り際に佐倉部長は、深々と頭を下げてそう言った。

「俺はただ、友人の話をしただけだぜ」

 リペア道具の片付けながらの俺の返答で、二人の間には重く、晴れない沈黙が降ってきたのが分かった。

「フミヤさんって……」

 沈黙が破られたのも束の間で、「いえ、何でもありません」と部長はまた、黙り込んだ。
 そう、「何でもない」。俺の話の中のフミヤは、「何でもない」のだ。強く自分に言い聞かせ、俺は道端の小石を蹴った。側溝の鉄格子に当たったそれはカーンと明るい音を鳴らして、泥の底に落ちていった。そしてそのまま誰に拾われることもなく暗く湿った所に居続けるのだろう。

「森野内さん、楽器がやりたいんじゃないんですか?」

 何を根拠にそんなことを。俺は盛大にため息をつく。部長のこの言葉には、おどける気さえ起きなかった。彼女を強引にリペアルームの扉まで誘導して、抑揚もなく、言い放った。

「楽器なんて、やったことないっつーの。くだらないこと言わないでとっとと帰れ。じゃあな」




 バタリ。

 背中でもたれかかるように自室の玄関の扉を閉める。部屋では静寂だけが俺を待っていた。大学生の一人住まいにしては、やっぱり広すぎる二LDK。要らない防音。二重窓。
 抵抗が大きくて滑りの悪い、折りたたみ式の梯子を伸ばしロフトに上がる。この広い収納スペースにたった一つ、埃をかぶった茶色い箱がある。取っ手に手をかけて引っ張り出して、ロフトから降りる。埃が手につくが、気にならなかった。
 薄汚れたポリシングクロスでその箱を丁寧に拭く。大きさは、一メートル四方の半分くらいの四角。鍵を開け、蓋を開く。
 室内は異常な静けさに包まれていた。ただ、楽器を組み立てる時の独特な、木と金具のこすれる音が聞こえるが、この広い部屋に響くほどのものではない。不意に、店長の言葉が微かに蘇る。

(生きているものこそ、音楽なのだ)

 楽器を組み立ててしまってもなお迷いを抱えている俺の背中を、その微かな言葉がトン、と押してくれた。
 首にストラップをくぐらせ、ストラップに「これ」をひっかける。
 クランポン、バスクラリネット。B管。
 自分をだまし続けて封じ込めていたこいつが、さらに俺の心に迫ってきた。「忘れないで」「私はずっと、あなたの傍にいた」「あなたは私を愛していたでしょう?」
 それは哀願などでは決してなかった。これはこいつの、俺に対する切実で確かな、愛だった。
 深く深く、息を吸う。そう、腹式呼吸で。そして俺はただ、本能に従って吹くだけだ。
 『Over The Rainbow』和題は、「虹の彼方に」だ。




 あの日から佐倉部長は、毎週末にサワダ楽器にやってくる常連客になった。あの話を蒸し返す事は無い。

「どうだ、練習メニューは」

 いつもと変わらない景色、リペアルームで、俺と佐倉部長は一対一。彼女は毎度彼女の相棒と共にやってきて、部活の様子を事細かに教えてくれる。

「はい。森野内さんの豊富なメニューのおかげで、各々が自分に必要なメニューを行う事が出来てとても活気づいてきました」

 ありがとうございます、と丁寧に頭を下げられる。毎週のことなので、つい苦笑が浮かぶ。
 彼女の相棒は今まさに分解され、俺の手中にある。とはいえ、基本的な手入れは佐倉部長の手で十分丁寧に行き届いているので、楽器自体にはほとんど問題はない。一つずつキイを動かしていくと、カコカコカコと木が鳴った。

「それにしても、気持ちいいですね。みんなでやる音楽って」

 佐倉部長が突然感慨深くほろりと呟いた。その言葉に、自然と微笑ましい気持ちがホワンと生まれた。俺の口が、動き始める。

「そうだろ? 何十人もの仲間が同じ一つのものに向かって毎日毎日努力する。言葉にしちまったらそれだけなんだけど、それって凄いことだと思わないか。……俺はそう思うよ。ちょっと考えてもさ、そんな事なかなか無いもんな。
 そして音楽ってさ、努力の形そのものも美しいと思うんだ。練習の矛先が自分のためだろうが人のためだろうが、それは人それぞれだ。そんなことは実はどうでもよくてさ。その努力の結晶が、ついにはより壮大で、より繊細な『音楽』となってこの世に新たに生まれるんだぞ。凄いだろ?
 来る日も来る日も自分の相棒と共に悩み苦しむけれど、その相棒の重みが日常になり、その相棒の音色は自分自身なんだっていうあの感覚……」

 佐倉部長の顔は少し紅潮している。俺は多分、鼻息が荒い。

「絶対、味わってほしいと思う」
「……はいっ」

 俺は力強く、ケースに収納されたバスクラリネットを彼女に手渡した。彼女はいつもの快活な笑顔から一転、そわそわしながら俺にこう尋ねた。

「あのぉ……どうして私にここまでしてくれたのですか?」

 思わぬ質問に頬が緩んだ。答える気はあるのだけれど口で言うのが照れ臭い。仕方がないからいつも持ち歩いているリペア道具のケースから一枚の大判写真を取り出して、彼女に手渡した。

「これは」

 佐倉部長は幸せそうに微笑んだ。それは数年前の集合写真。下の方に題字が書いてある。「全日本吹奏楽コンクール 銀賞」。真ん中にいるタクトを持った燕尾服は、紛れもなく店長だった。
 そしてその隣にはちゃんと、満面の笑みでピースサインをしている俺が、クランポン製のバスクラリネットを首から下げているはずだ。


【了】

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