翌日の金曜日は、四ノ倉さんと紺崎が話をする約束になっていたらしく、俺は新しい週が来るのをじっと待っていた。
翌月曜日の昼休み、俺は紺崎の行く手を阻んで宣言した。
「放課後、話がある」
俺の真剣な顔がよほど珍しかったのだろうか、少し意外だ、という顔をしたものの、「ああ、いいぜ」と快諾してくれた。
奴は、俺が言おうとしていることを、知っているのだろうか。
「それは、本当なんだな」
やはり、四ノ倉さんから聞いていないみたいだな。
「ああ、この前俺は四ノ倉さんと話した。そして好きだと告白した」
正確には「好きだ」とは言っていないけれど。
そして、これが本題。
「彼女は、『考えさせてほしい』と言ってくれた。受け入れてはくれなかったけど、拒まれもしなかった……そう、解釈している。
そこでお前に聞きたい」
俺がお前をだましてまで聞きたいこと、プライドよりも大切なことが、分かりそうなんだ。
教えてほしい。
「お前は、四ノ倉さんのことどう思っているんだ」
彼女は確か、こいつの事をこう言っていた。「――最近ちょっと賢くなったかな――」と。それはまんざら嘘でもないようだ。黙って少し考えて、じろりと俺を睨んで言った。
「……本当なんだな」
どうして俺はこいつを二回も欺かなくてはならないんだ。自身の愚かさと罪悪感に胸が締め付けられる。
「ああ」
奴は、話を整理しているらしかった。そして、
「自分のことは、一番良く知っているつもりだった」
と切り出したのだった。
自分のことは、一番良く知っているつもりだった。そんな自分だから、自分が好きになれなかった。弱くて意地っ張りで、不器用な自分だった。本当に嫌だった。
生きていることに、疑問を感じるようになったんだ。きっかけは、つまらんことだ。自分と世界とがまるで双眼鏡のあっちとこっちみたいに、違いすぎていることに気づいてしまったんだ。自分があまりにも小さくて、もう悔しいっていうか、情けないっていうかさ。
そんな自分、要らないな、って思った。
でも、死んでしまうのは怖かった。それは、自分が弱虫だからだと思ってた。いざ自分の存在を自分で消してしまうとなると、覚悟のいることだった。
そんな覚悟もない不安定な俺は、それでも生きている証が欲しかった。偶然だったのかな、手元にはカッターナイフがあった。それを使って少し、腕をなぞってみた。簡単には、皮膚は裂かれなかった。もう少し、もう少しだけ力を入れた。スウッと刃が入り込んで、赤い筋が一本できあがった。プツッと血の雫が線上に三、四粒浮き出てきたのが見えた。俺は、何となく思ったんだ。生きている俺の体には、確かに赤い血液が流れているんだ。これが、俺が生きている証なんだって。
分かるか? 俺は今まで、死のうとすることで、生きていることを確認していたんだ。
でも、柚希に会って、俺は変わった。俺はあいつを好きになっていたし、あいつも俺に、生きていてほしいと思ってくれてる……多分な。
死ぬことはさ、誰にだって起こりうることなんだ。待ってさえいれば、遅かれ早かれその日はやってくる。死は、この世の摂理で、宿命なんだ。それを自分の手で導いてやろうだなんて、厚かましくて我が儘なことこの上ないと思わないか?柚希はあれで、強い人間ってわけじゃない。頭もいいし、純粋だが、いつも何でも一人でやろうとする。あいつは優しすぎるんだ、俺と違って。
俺は、柚希が見つめる世界を、傍で一緒に見ていたい。柚希のことだけでも守ってあげられるのなら、俺はそれだけでいい。
柚希は、俺の人生のすべてだ。弱い俺の、たった一つの強みなんだ。死ぬなんて、もう二度と言わない。生きることを諦めんのはもう、やめだ。
俺は変わったんだ。くたばるまで、生きてやるよ。
「……俺は、柚希が生きてくれさえすればいいと思ってる。柚希の命を守るためだったら、俺の命に代えてでも、あいつを死なせるわけにはいかないんだ。
もし、もしだけどな、あいつを守らなきゃいけなくなった時、俺があいつのためにできる一番いいことって何なんだろう。あいつが俺に、一番望んでいることは何だろう。
俺は、頭がよくない。だから、あいつの隣にいることに疑問を感じて、悩んだこともたくさんあった。でもあいつは、そんな俺でも心から愛してくれた。……嬉しかったな、俺の告白を受け入れてくれたときの、あいつの表情。なかなか笑ってくれないんだけど、あん時はあいつ、心から喜んでくれた。その時思ったよ、俺でも、誰かのために生きることができるんだって。本気で誰かを愛して、愛されることができるんだってさ」
なに言ってやがんだ、コイツは。
「ただ、やっぱりお前みたいに頭のいい奴のほうがいいのかもしれないな。人望もあるし。……俺だってあいつを一番に思ってくれている奴が隣にいるべきだと思ってるし、その点では俺はだれにも負けないと思っていたけど……」
思い上がりだったみたいだ。奴は笑った。はたから見れば、自嘲しているように見えたかもしれない。でも、俺には……。
今、奴の振りかえる過去は奴の人生の全ての幸福だ。その幸せを、奴は今、手放そうとしている。
四ノ倉柚希という、ただ一人のかけがえのない人の幸せのために。
それが彼の、最後の幸せだと言わんばかりに。
「……そうか、じゃあそう、四ノ倉さんに言ってこいよ」
俺には、敵わないや。
「は……?」
「『考えさせてほしい』なんて、嘘に決まってんだろ。疑えよ。よくそんな恥ずかしい事真顔で言えるよな」
俺にはここまでのこと、できない。二人の間の濃い時間に割って入るほど、俺は愚かで馬鹿じゃない。それに。
「四ノ倉さんの隣は、今のところお前が一番お似合いだ」
彼女は心から奴を愛しているに違いない。そして、奴の思いも、それに寸分違わない。それに気づかず悩んでばかりいる奴は、確かにあまり賢くはないわな。彼女はただ純粋に奴と一緒にいたいだけで、もう生き死にのことは考えたくないはずだ。
まあ、それに奴が気づくのに、そう時間はかからないとは思うけど。奴の心の脆さを一番理解してやれるのは、この世でおそらく四ノ倉さんだけだろう。
奴は自分の両手を見つめ、二つの拳を固く結んだ。
「ありがとう……もし俺に何かあったら、柚希を頼む」
それはちょっと、ごめんこうむる。
俺は先日フラれたばかりなんだ。
駒浦小径一七歳、高校二年生も、あと数カ月。
ここまで語っておいて、ここで言うのもアレだが、俺の四ノ倉さんへの恋心は、俺の人生最初の恋だった。情報屋が情報に恋をしなくなったらオシマイだということだ。それだけに俺には分からないことが多すぎ、不手際なところも多くあった。何より、人を傷つけすぎた。
俺は確かにフラれたけれど、紺崎がいつヘマをしでかすか分からないから、好機が訪れるのを今もひそかに待っている。
ただ、同時に、あの二人にはいつまでも一緒にいてほしいとも思っている。矛盾している。これは一体どういうことなのだろう。
分からない。
恋愛には、分からないことがありすぎる。ありすぎて、なんだか泣けてくる。