あかりがまぶしい
寄り添う君の名前は知らない
 発車まで、あと7分。
 電車内の通路の狭さに閉口している乗客を、薄目で眺めていた。俺の右隣、通路側の空席には俺の細かな荷物が鎮座している。乗り換えを待つ快速列車は、発車時刻が近づくにつれ自由席は減っていき、座席の荷物を網棚に上げる乗客も目立ち始める。

「ここ、いいですか?」

 低く、耳に優しい女声だった。小さなリュックだけを背に、彼女は通路で立ち止まっている。疲れたような表情は、俺の知らない顔だった。

「あ、どうぞ」

 ガサガサと慌てて膝の上に鞄を寄せ集めると、席を占めていたポーチの小ささが途端に恥ずかしくなる。出来上がった空席に、彼女はうっすらと笑って会釈をし、静かに腰をおろした。
 するっと背中から下ろされ膝に乗せたられた可愛らしいリュックサックが、彼女の身体の線の細さを際立たせた。細い両腕でそれをしっかりと抱いている。化粧のない顔で、こんなに整った顔もなかなか見られない。どの駅まで彼女の隣にいられるだろうかと頭の片隅で考えながら、俺は持ち合わせの漫画本を開いた。
 発車まで、あと5分。




 発車まで、あと1分。「ご乗車のままでお待ちください」のアナウンスが流れる。
 駅の中にあった中古本屋で購入した漫画は、いつもすぐ読み終わってしまう。電車は間もなく駅を出る頃だ。ふう、と小さく息をついて窓の外をぼうっと眺めていると、右手に何か温かいものが触れるのを感じた。

(ん?)

 見ると、リュックを抱いたまま眠りこけた彼女の右手が、脱力して俺の手の上に着地してしまったらしい。呼吸は安定そのもので、そっと乗せられた白い手は動き始める気配を見せない。
 そしてついに電車はホームを離れる。電車が発車した際の加速でも彼女は目を覚まさない。

(お疲れなんだな)

 手をどかして起こすのも忍びない。俺の降りる駅まではまだ時間がある。手が触れるほどの距離とあらば、心なしか普段嗅げないような甘い香りがふわりと鼻孔をくすぐっている気がする。香りに鼻をくすぐられて、この柔らかさをすぐに手放すのが急に惜しくなった。
 くだらない下心だと自分でも思ったけど、男なんてそんなものだと正当化する。




 発車後、5分経過。
 触れてみると、その手の綺麗さがよくわかる。電車の揺れに合わせて、力ない指が俺の手の甲の上でくすぐるように踊る。手の皮膚がこんなにも薄くて感じやすいものだということを、初めて知った。手の向きはそのままに、その細い中指を指先で少し撫でてみた。こんなに細いのに、どうしてこんなに柔らかいんだろう。
 身体を動かせば、その動きが伝わって彼女を起こしてしまうかもしれないと思って、必要以上に身体を固くしていた。手のひらには早くも汗がにじみ出す。

「ん……」

 ぐらっと車輌が大きく揺らいだ拍子に、彼女の頭が俺の肩にもたれ掛かった。いつの間にか、互いの肩が触れ合う距離になっていたらしく、仄かに漂っていた甘い香りがグッと強くなる。触れていたという程度だった手は重なり合い、指が数本交互になった。久しぶりの――思い出そうとしなければ頭によぎらない程度には久しぶりの――飽きない感触だ。いっそこのまま握ってしまいたい。頭ではそう思いながら、電車の揺れを見計らって指を微かに動かすことしかできなかった。
 頭の重さはそれなりだったが、不快な気持ちは微塵も浮かばなかった。触れているところが熱をもってきている。

「次は〜○○〜。お降りの方はお忘れもののございませんよう……」

 アナウンスに合わせて、ふっと電車の速度が落ちた。グッと前のめりの力を感じる。温かかった手の甲を、涼しい風が撫でた。

(あ、起きた)

 さっと傾いていた身を起こして、彼女はせわしなく両手で髪を整える。ふるふるっと頭を振っている姿はさながら小動物のようだ。ぎゅっと膝の鞄を抱え直しそこに顔を埋めるその素振りから、落ち着いた声色からは聞きとることの出来ない彼女の魅力のようなものを見た気がした。




 揺れにかまけて肩がかすかに触れる距離を保っていた。強い揺れで時々、二の腕がふわっと肘に当たるのが心地よい。しばらくすると、鞄に顔を押し付けて小さくなっていた彼女の体勢に、再び変化が生じていた。
体重がこちらに移動してきた。肩が刻々と重くなり、頭がぐらりとこちら側に崩れかけるのも1分に1度や2度ではない。
 時間の問題だったのか、彼女の頭はいつの間にかまた俺の肩の上に収まっていた。さっきよりも接近度が増していて、肩に感じる柔らかさが頬であることに気づくや否や鼓動がドクドクと速まる。顎を引いて寄りかかるその乱れのない無防備さに、心惹かれずにはいられなかった。

(……ちょっとだけ)

 細心の注意を払って、すなわち、あくまで俺も眠りに誘われたかのごとく自分の頭を彼女の方に寄せていく。
髪の毛の先が触れる。彼女は動かない。
 首を深く傾げて、頭皮の温もりに触れる。彼女はまだ動かない。
 背筋を倒し、ついには頭蓋骨の固さにも触れた。目をつむって今の自分達の姿を想像した。心地よくて、いっそこのまま眠ってしまいたいと思った。




「次は〜○○〜。お降りの方はお忘れもののございませんよう……」

 彼女が再び頭を離した。急いだ様子で、お互いの頭がコツ、とぶつかった。立ち上がり鞄を背負い、乗降口に向かう。
 その背中を追う俺の視線の先で彼女は振り返った。

「あの……すみませんでした」
「え、あ、いえ」

 振り返ったのが一瞬だったという理由もあるが、顔なんて見れなかった。初めて会った人と――しかも、まともに顔を見たのは最初に席を譲ったあの瞬間しかない――特別な関係を持ってしまったような気分で、顔がものすごく熱かった。

(『すみませんでした』って、お互い様だろ)

 二度目に眠った彼女の呼吸や動きが、乗り合わせた直後と少し違っていたのには気づいていた。彼女は、少なくともずっと眠っていたわけではない。
 電車はホームを滑り出し、何事もなかったかのように俺の目的駅に向かう。何も置かれない空席に彼女の跡を探した。たった数十分の偶然にいくら思いを馳せても空席はただの空席でしかなく、俺の心はしばらく彼女の残像に寄りかかっていた。


【了】

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