しめやかな雨音とともに、ひんやりと湿った夜気が頬に触れる。
 けだるく浅い眠りから目ざめた曹丕は、寝返りついでに隣の枕に視線をやった。
 が、当然そこに伸びていてしかるべきはずの、か細い肢体がない。思わず敷布の上に起きあがると、知らぬ間に掛けられていた衣が、上半身をするりと滑りおちた。
 夜半の闇に沈んだ部屋を見回せば、綺帳のかげから漏れる枇杷色の光がある。
 衣に袖を通した曹丕は、裸足のまま冷たい床に下りると、そっと綺帳に手をかけて、その隙間から中をのぞきこんだ。
 淡く灯された燭火に、細身の影が浮かんでいる。――そこには予想通り、文机に向かった司馬懿の姿があった。
 彼はいつ持ち込んだものか、いくつもの書を目前に積み上げ、一心不乱に筆を走らせている。集中しているらしく、のぞいている曹丕に気づく気配もない。それとも、気づいていて、わざと知らぬふりをしているのか。曹丕が綺帳の内側に身をすべりこませても、司馬懿は顔を上げなかった。
 曹丕の腕の中から抜けだした時のまま、梳ってもいないであろう長い黒髪が、痩せた背へ幾重にも流れおちて、美しい滝模様を描いている。
 もともと細い司馬懿のその肩が、一瞬、まるで衣の重さにさえも耐え得ぬように華奢に見えて、ふいに無性な苛立ちが曹丕を襲った。

「何をしている、仲達」

 背後から腕をのばして司馬懿の顎をつかみ、強引に上向かせる。愕きに見開かれたその瞳が、燭照に射られて一瞬、鋭い金色に光った。

「曹丕殿……!」
「よもや起き上がる余裕があったとはな。よほど責め足りなかったとみえる」
「ご、ご冗談を」

 あれ以上されたら体がもちませぬ、と、赤い顔で手を振りほどいた司馬懿を、曹丕は今度は後ろから抱きすくめた。反射的にだろう、逃れようとするのを、抱え込むようにして膝のあいだに捉えると、あきらめたように力を抜く。机上で、細い燭火がゆらりと揺れた。
 おたがいの、吐く息が白い。
 腕の中で大人しくなった肢体には、存外にしっかりとした量感がある。安心すると同時、先ほどの唐突な衝動が自分でおかしくなり、忍び笑った曹丕を、司馬懿が不思議そうに見上げた。その眉が、ふと動く。

「……曹丕殿。御髪が、」

 言いながら手を出そうとして、はたと引っ込める。おそらく、主に慣れなれしく触れようとしたことに気づいて、ためらったのだろう。
 共寝のあとでさえ、あくまで主従の矩を越えようとしないその生真面目さが、曹丕にとってはもどかしくもまた、いとおしい。
 我ながら病は深いようだ、そんなことを思いつつ、曹丕はおのれの乱れた髪に手をやった。指を通しながら、目の前にある司馬懿の長い髪を見るともなしに見る。

「お前の髪には寝癖はつかぬのだな」

 曹丕の声音が平生のそれに戻ったことに安堵したのか、司馬懿もいつもの調子に戻って、答える。

「そうですな……まあ、このとおりの長さゆえ、重さもありますから……自然と真っ直ぐになります」
「そうか。だが、櫛も入れずに、よくこのように滑らかな手触りになるものだ」

 納得してその髪に触れると、見た目よりさらに柔らかい黒髪は淡い燭にさえ艶々と光って、指のあいだを滑りおちた。そのまま、髪に顔を埋める。鼻先をもぐりこませるように首筋をさぐりあて、唇を押しつけると、司馬懿の体がふたたび強張った。

「曹丕殿」
「仲達、」
「……お許しください、書きものがまだ」

 往生際悪く書簡の山に手をのばそうとするが、曹丕は許さず、細い体にまわした腕にさらに力をこめる。

「そんなものは、夜が明けてからでかまわぬ」
「……っ、そ、外の様子は如何でございましょうな。ああ、雨はどうやら小降りになったようですが。しかし、それにしても今夜は冷え――」
「私を見ろ、仲達」
「…………」
「仲達?」

 沈黙してしまった司馬懿に、曹丕は顔を上げる。背後から抱え込んでいるので、その表情はうかがえない。だが、うつむいた彼のその耳朶が、真っ赤に染まっているのが、はっきりとわかった。
 やがて雨音にまぎれ、蚊の鳴くような声が、耳に届く。

「……寝所以外では、羞ずかしゅう、ございます」

 曹丕は一瞬、目を瞠ったが、すぐにその唇が笑みのかたちに弛む。

「……ならば、臥床に戻るぞ」

 司馬懿は無言でうなずいた。その髪にもう一度触れると、ようやく振り向いた目が、あきらめたように小さく笑っている。曹丕は満足げに、その薄朱い頬へ口づけを落とした。
 雨はまだ、しめやかに瓦屋根を叩いている。




後刻



09/11/14 writeen by brief
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