※18歳未満の方はご覧いただけません。お手数ですがトップページにお戻りください。
――瞼の裏で、青い波が砕けた。
頭から足先まで、清冽な水に浸ったような心地がして、曹丕はうすく眼をあけた。
雨粒が瓦屋根を叩く音が、やけに高く耳をうつ。
顔をあげれば、花頭窓と高欄のそと、空は一面の曇天である。低い雷鳴を孕んだ雨はもう永い間、止む気配すらも見せず、洛陽の城郭へ降り通しに降り続けていた。
――過日、樊城で討たれた関羽の怨みでもあろうか。
「曹丕殿?」
己の上に覆いかぶさったまま、動かなくなった曹丕をいぶかしく思ったのか、司馬懿が小さく声をかけてくる。
情火の名残に濡れてなお濃い切れ長の眦、女も顔色をなくすような肌体をもったこの華奢な男が、関羽を呉に討たせる策を献じた当人であることを思い出し、曹丕は口許にあるかなきかの笑みを刷いた。
「父のことを考えていた」
言いながら、身を起こす。深々と打ち込まれていた楔を引き抜かれ、司馬懿は白い喉を見せて体をふるわせたが、告げられた言葉に曹操の名を聞き、双眸からあっさりと色を消して起き上がった。
魏王曹操はいま、病床にある。
もう長くないだろうということは、近侍の者ならば誰しもが知っていた。もちろん、声高に口に上せる者こそいようはずもない。だが、先ほど枕頭を見舞ったさいに感じた奇妙な静謐――なかば幽界とつながったがゆえの静謐が、すべてを余すところなく告げていた。
死の間際にある実の父に接しても、曹丕の心にはさしたる感慨は湧いてこなかった。いずれ来るべきものがついに来た、それだけである。彼はもうずいぶん以前から、それを経た先を見ていた。もはや為すべきことに対するすべての覚悟はついている。
牀のうえに片肘をつき、薄物しか纏わぬ体を長々と投げ出した曹丕に、こちらもまた、乱れた着物から白い肩を零した司馬懿が、そっと寄り添う。
その横顔は、先ほどまで女のように啼いていたとは思えぬ、研ぎ澄まされた線を見せていたが、曹丕の体にゆるく這う蛇のように伸びた手は、あきらかに快楽の余燼をさぐって、動いている。曹丕は黙って、波のように寄せては引く、情人の愛撫に身をまかせた。
曹操は、この男を高く買っていた。だがその一方で、「人臣に非ず」と評したことも、知っている。その才は、いつまでも人の下風で安閑としておれるものではないだろう、と。
それでも、ここに至るまでついに殺せずに生かしておいたというのが、いかにも才を惜しむ父らしいと、曹丕は思う。
司馬懿が彼の下に付けられた時も、重用するのはいいが、心を許すな、と言外に匂わされた。
だが曹丕は、司馬懿に引き合わされた時、初めて意志の通じる相手を見つけた気がしたものだ。
端整な外見に隠した、切れ味鋭い刃。それはひとに虞れを抱かせ、そして同じほどに、惹きつける。
無言のままに奉仕を続ける司馬懿の、怜悧な眉間の色を見ながら、曹丕は眼をほそめた。
鋭い刃を懐深く呑むのは、力になると同時に、いつ我が身を刺すことになるかもしれぬ諸刃の賭けである。それをわかっていて、自分はこの男に恋着している。
司馬懿が曹丕に対して、愛情を持っているのかはわからない。しかし、惻隠の心くらいはあるのだろう。曹丕の膚に細い指をすべらせ、中心で萎えた徴を握り込む、その手つきは賢しらだが、情味を失ってはいない。
だが、肌体を馴らしたように、この男の心まで馴らしてしまえるとは到底、思っていなかった。
燠火をかきたてるような愛撫に、ふたたび身体の裡に燃え上がる炎をおぼえ、曹丕は囁いた。
「仲達、」
呼びかけに応えるように、司馬懿がわずかに眼をあげた。その一瞬、殊勝げに伏せられた睫毛のしたで、金の瞳が、獲物をおう隼のような気色を見せる。――あるいは狼か。曹丕は心の中で笑う。たしか父が彼をそう呼んだ。
「仲達、――私はお前を」
司馬懿の空いた手が唇まで伸びた。不用意な言葉を封じるように。だが、曹丕がかすかに笑っているのを見、訝しげに首をかたむける。
妙に可愛げのあるその仕草に刺激され、曹丕は司馬懿の顎をひきよせると、なかば強引に口づけを迫った。じらすように右へ左へと逃げるのを、ゆるゆると、楕円を描くように追いまわし、ようやく捉えたうすい唇を存分に味わう。
暗い空に、稲妻がつかのま、滲みでるように疾った。
司馬懿の裸の半身を抱くと、肋骨が肌にあえかなさざ波を立てる。その感触に煽られて、さらに深い、埋めるような接吻を与えれば、首のうしろに白い手がまわる。
細い腕に引き込まれるように覆い被さった曹丕の口中に、熱い舌がさしこまれた。
身体に燻っていた余炎はすでに、ふたたび火柱となって曹丕の内に立ち騒いでいる。
「あ、あ……」
嬌声と呼ぶには慎ましやかなため息を耳朶に感じつつ、ひと息に突き入れると、顎をふりのけた司馬懿の黒髪が、波をうつように敷布の上へ広がった。
(父よ、あなたは偉大だった)
たまらずに喘ぐ臣の身体を性急に責めながら、すでにこの世にいない人間に語りかけるように、曹丕は胸中で独り言ちた。彼にとって、いま、同じ宮殿の梁の下で臥した曹操はすでに、抜け殻であった。塵土に起ち、数多の群雄を圧し、その爪をまさに天に掛けようとした英邁な覇王と、今にも立ち消えそうな命の灯のなかをさまよう老人は、つながらない。
(だが、私にも、力がある)
かたわらには、金剛の爪牙を持った狼が、いる。
そう、馴らすことはかなわないだろう。だが御すことはできる。
自分には、その力がある。
「仲達、お前ならどうだ」
呼びかけに、司馬懿が上気した目許をわずかに動かす。濃く染まった眦が、ぞっとするほど艶冶に濡れている。
さきほどから眼を誘ってやまない、白い喉に舌を這わせていきながら、曹丕は囁いた。
「――お前とて、ただ与えられるものなど、欲しくはないのだろう?」
うすく開かれた司馬懿の双眸が、一瞬、凍ったように静まった。冷たい火明のような光をたたえた瞳が横に流れ、曹丕のそれを捉える。だがそれはあくまで一瞬だった。金色の瞳はすぐに色に染まって蕩け、そして唇はふたたび甘い声を漏らしはじめた。
曹丕もまた行為に没頭した。熱を煽り、吐息を貪り、飽かず肉を絡め合う。慎みも忘れたまじわりの果て、やがて総身に、いつまでも手なずけることのかなわぬ、愉しむことしかできぬ法悦が襲ってくる。
いつしか、暗い空に、青波が立った。それは雨を逐いながら天にひろがって、陽を受けて金色に光る雲の岩礁を洒いはじめたが、曹丕はもう窓の外は見なかった。
寵臣の髪に顔を埋めた瞼の裏に、ふたたび青い波が砕け、意識のすべてをさらっていった。