「お顔色が勝れませんな」

 司馬懿は開口一番、そう言った。
 彼の主である曹丕が、ものうげな目をあげる。

「そうか?」

 胡床に椅った主の前に書を並べながら、何でもないような口調で、司馬懿は続けた。

「どこかお淋しそうな顔色に拝されますが、いかがなされましたか」
「……僭越だぞ、仲達」
「は、……申し訳ありませぬ」
「……冗談だ」

 しばらく、沈黙がおりた。
 部屋には午後の斜光がさしこんでいる。司馬懿の伏せた目の端で、曹丕がまとう衣の金襴がちらちらと光る。
 ややあって、曹丕が口をひらいた。

「……讒口を聞いた」

 その声音に、隠しきれぬ苛立ちを感じ取った司馬懿は、慎重に言葉を接いだ。

「……私の、ですか」
「そうだ」
「いったい、どのような」

 普段から険しい色をしている眉間に、さらに憂色をのせて、曹丕は首を振る。

「くだらぬことだ」
「ですが、仰っていただかなければ、申し開きのしようもございません」
「ほう……」

 司馬懿は殊勝に面を伏せて言ったが、曹丕はわざとらしく歎声を漏らしてみせる。正面から様子をうかがわずとも、口元が皮肉げに歪められているのが見えるようだった。

「ならばお前は、私に言い訳せねばならぬことがあるのか?」
「……いえ、決して」

 司馬懿はまっすぐに顔をあげた。曹丕は胡床の肘掛けに頬杖をついて、こちらをじっと見据えている。その様子は不機嫌そうではあったが、表情には意外にも皮肉の翳はない。
 彼は奏案に置かれた書を気のないしぐさで手に取りながら、先ほどの司馬懿と同じように、何でもないような口調で、短く問うた。

「――お前は、私におもねっているか?」
「そのつもりはございませんな」

 だが、狎臣ではあるかもしれないと思う。曹丕はその冷徹な顔の裏で、胸襟を開いた相手には過剰なまでの好意を見せることがままある。とにかく、人に対する好悪が激しすぎるのだ。
 しかし少なくとも彼は決して、個人的な情誼と、みずからが採るべき道を混同したりはしない。――そのはずである。

「何者かの、離間の策やもしれませぬ」

 曹丕の腹心として陰で手を汚すこともある以上、恨まれる心当たりならば充分にあった。跡目争いが熾烈だったころに、相当量の敵を作った自覚もある。

「――あるいは、蜀側の、」

 なお言葉を重ねようとした司馬懿を、曹丕はさえぎった。

「どちらでもよい」
「は……」
「取るに足らぬ讒言で、私からおまえを離せると思った者がいる、――私はそれが不愉快なだけなのだ」

 司馬懿は目を見張った。

「曹丕殿、それは……」
「ふん……いずれにせよ、愚かな者ばかりだな」

 ため息とともにそう吐き出し、曹丕は頬杖のまま横着に片手を振った。この話はもう終わり、ということらしい。司馬懿はうやうやしく拱手し、安堵と感謝の意を示してみせた。
 だが、実際のところ司馬懿は、曹丕の寵を失うことも、失脚することも、さほど惧れてはいなかった。
 汚れ仕事を引き受けている以上、普通に考えれば切り捨てられる危険はきわめて多いといえるだろうが、彼には自信があった。――今の曹丕にとって、司馬懿以上に有能で、意向に確実に沿いながら、遺漏なく諸事を捌ける腹心は存在しない。
 手放そうにも、手放せまい。
 持ち上げた袖の陰に、司馬懿は表情を隠す。
 だが、ここまで開け放しに信頼しているという格好を取られては、さすがの彼も多少は居心地が悪いというか、変に疾しいような気分になってしまうのも、否めなかった。
 実際いまの司馬懿には、曹丕に二心を抱く理由などないのであるから、それもおかしな話なのだが――
 そんなことを胸裡で考えているうち、わきからするりと曹丕の腕がのびてきた。

「何をなさいます」

 声をあげたときには、体はすでに引き寄せられている。曹丕は、自分よりわずかに小柄なだけである司馬懿を、軽々とおのれの膝の上へと持ちあげてしまった。

「ふん、ずいぶん軽いな……ちゃんと食べているのか、仲達」
「た、食べております」

 思わず悲鳴のような声をあげてしまい、司馬懿は慌てて自分の口を押さえたが、彼の主は意に介したふうもない。

「私の与える扶持が足りぬからだ、とでも言ってみせればよいものを」
「まさか、そのようなことは……」

 それでは本当に、私が、狎れきった佞臣の類であるようではないですか。
 眉を顰め、かみつくように訴えてみたものの、曹丕には聞き入れる耳がないらしい。
 なんとか膝上から逃れようともがく司馬懿の身体を易々と押さえ込み、片手で器用に彼の冠を外すと、長い黒髪に指をいれ、ほとんど優しいといっても差しつかえない手つきで梳きはじめる。

「むかし夏の桀王は、寵妃の妹嬉を膝の上において聴政をおこなったというが」

 笑みをふくんだ声になぶられて、司馬懿はきっとなって振り返った。いくら主とはいえ、人をからかうにもほどというものがある。

「ええ、そして夏王桀はおおいに朝を乱れさせ、国力をそこなうこと著しく、ついに商の湯王に討たれたのでございます。曹丕殿ほどの方が、そのような……轍は……」

 まくし立てようとしたが、実際、膝の上で横抱きにされている姿勢では、どうにも格好がつかず、自然と言葉尻が弱々しく消えていってしまう。
 そんな司馬懿の様子を愉しげに眺めて、曹丕が耳元で囁いた。低い、甘やかな声で。

「お前にならば、溺れてもかまわぬ」

 なすすべもなく絶句した司馬懿の顔を見、曹丕はにやりと笑った。その表情には相変わらず屈曲した性格がよく出ているが、そこに先ほどまであった翳りは、霧が晴れたように消えている。
 主の機嫌はすっかり直ったようだが、むしろ、こうして際どいたわむれを言い出す時のほうが、よほど始末に困ることを、司馬懿はいやというほど知っていた。
 内心の狼狽と冷や汗をおしかくし、適当な遁辞を探しているうちに、曹丕の腕はますますきつくなり、その手は着物の裾を割ろうとまでしてくる。

「……私も、明日の朝議はお前を抱いて出てみるとしようか」

 耳元で、くつくつと笑いながら囁かれる言葉が、どうかたわむれであるようにと祈りながら――
 司馬懿は、どうしたらこの気まぐれな主の膝の上から、無事に逃れることができるだろうかと、遅まきながら必死の算段をめぐらせはじめた。




傾城



09/09/01 writeen by brief
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