――目を閉じると、いつもそこに見える景色がある。



 ふと、渇きをおぼえた。
 手の中の水杯はとうに温くなっていた。曹丕はその水で唇を少しだけ湿らせると、そのまま杯を卓上へ戻した。
 池畔から、なかば水面に迫りだすように建てられた亭は、園林の樹々がつくる濃い翳におおわれ、地をたぎりたたせるような外の陽気にもかかわらず、清涼な空気が吹き抜けている。しかし曹丕の額には、うすく汗が浮いていた。彼はそれを緩慢な動作でぬぐい、睡たげなまぶたをゆっくりと瞬かせた。

(また、あの夢をみた)

 遠くで楽の音が聴こえている。園遊の小休憩はもう長いあいだ、続いていた。おそらく曹丕が席上に戻らぬかぎり、いつまでも続くのだろう。
 更衣を済ませたあと、近侍の者を退がらせて、彼は一人だった。待たれているのは明らかだったが、どうしても腰が上がらないのだった。体調が悪いというほどでもないが、身体の芯に、妙なけだるさがある。

(あの夢をみると、いつも、こうなる)

 葉むらにおおわれた窓からの光は青く染まりおち、足下に起こるさざなみの音を耳にしていると、まるで深い青水の底に身をひそめてでもいるようで、去ったばかりの睡魔が、もう一度ひたひたと波のように押し寄せてくる。あらがえず睫毛を伏せるが、とたんに白い残映がまぶたの裏を燦爛と灼いて、曹丕は思わず小さくうめいた。忌々しさに、知らず、舌打ちがもれる。

(どうしたというのだ)

 自身に問いかけてはみるが、答えはわかっていた。夢が、それを教えていた。夢から教わる必要も、実際はなかった――自分自身がそれを一番よく知っているからこそ、夢に現れるのだから。夢のなかの光景は、そっくり、曹丕の眼前に広がる現実の光景でもあった。
 彼は眉根を寄せ、頭を振って、縁台へ深く沈みこんだ。調えた髪が乱れ、額に落ちかかる。ひどく、喉が渇いていた。
 人々のもとへ戻るべきだった。立ち上がり、足を踏み出すだけでいい。そこには豪勢な宴の続き、歓楽が待っている。宴は、嫌いではなかった。きらびやかな絃楽、めぐる美酒の杯、泡沫のようにわきあがる笑い声。思索の、苦悩のすべてを優しく否応のない力で根扱ぎにしてゆく歓楽。身をまかせてしまえば、いっとき、なにもかも忘れることができるはずの。
 だが、曹丕の身体は動かなかった。
 目を閉じるとまぶたの裏に、どこまでも尽きることのない、長い長い白い砂地が浮かんだ。それはいつからか夢に、そしてこうして目醒めていても、独りになると必ず曹丕の許をおとずれるまぼろしだった。
 その白い砂がどこからはじまり、どこへ続いているのかは分からない。白一面に容赦なく日光が降り注ぎ、そこに心休まる翳りというものはどこにもない。
 怖ろしい風景だった。だが、いずれ踏み出さぬわけにはいかない道だということだけが、わかっていた。

「――曹丕殿」

 突然、亭の外から名を呼ばれた。そろそろ、その声が聞こえる頃合いだろうと思っていたので、曹丕は驚きはしなかった。
 薄目をあけて見やると、そこにはたったいま見たまぼろしと同じように、白く燃えたった日曝しの庭があった。その只中に、司馬懿が佇っていた。
 遮るもののない庭の敷石は盛夏の陽ざしを反射して、まるで白光をふきあげているように思われた。佇立する司馬懿の顔や身体の上で、その見えない火影の切っ先が、しきりにほのゆらいでいるのを、曹丕は見た。

(ああ、)

 そんなところにいては、いつか光に溺れて盲いてしまう。
 曹丕は思わず指をのばしかけた。が、司馬懿はそれを招き入れる所作と受けとめたらしく、目を細めて中の様子を窺うと、こともなげに階を上り、目隠しの帳を避けて、縁台へ凭れたまの曹丕のそばへ立った。

「曹丕殿。そろそろ、ご出御あそばされますよう。かたがたもお待ちかねでございますぞ」

 耳を撫でさするような美声が降ってくる。曹丕は乱れたままだった髪をかきあげ、わずかに唇の端を歪めた。

「そうだな、戻るか」

 答えながらも、立ち上がろうとする気配のない曹丕に、司馬懿の形のよい眉がふと翳る。

「曹丕殿」

「ああ」

 生返事を重ねると、うすい唇から、悩ましげな溜め息がもれた。

「……あまり、仲達を困らせないでくださいませ」

 その返答は、曹丕の気に入った。誰の名を持ち出すより、こういう物言いのほうが曹丕を動かしうることを、司馬懿はよく弁えている。賢しらではあるが、ありふれたお為ごかしよりよほど耳に快いことは、事実であった。

「ほう……お前が困るのか。ならばもっと、困らせてやろう」

 見上げた司馬懿の横顔は、心が通うとは思えないほど冷たく整った線を描いている。だが、これでこの男は案外に感情が動きやすいということを曹丕は知っていた。
 案の定、司馬懿は柳眉をはね上げ、それから少し困惑したような表情になって、彼の名を唇に上せる。

「曹丕殿……」

 ああ、と曹丕は思う。困惑した顔は司馬懿によく似合った。もっと似合うのは、不機嫌な顔。そしてさらに似合うのは――
 そんなことを思いながら上げた目に、司馬懿は首をかたむけながら、諦めとも、微苦笑ともとれる溜め息を返してきた。

「……いけない方ですね、あなたは」

 それはいかにも困じ果てたという調子だったが、声音はむしろ優しかった。
 宴の席上、酒を断るわけにもいかなかったのだろう、司馬懿の目の縁はほんのりと濡れたように赤らんで、まるでこの青い日翳の懐に紅でも吐くように、色めいている。
 そう、どういうわけか、この男には淫蕩な表情がよく似合った。普段が堅い男だけに、その艶めきは、彼の裡にも濃密な爛熟したものがあるということをたしかに匂わせて、いっそう蠱惑的であった。

「いけないか?」

「ええ」

「そうか。ならば、叱ってくれ」

 言いながら、曹丕は彼の手を握ると、胸元へ引き寄せた。そのまま俯き、指先に口づける。司馬懿がはっと息をつめる気配がした。
 彼はほんの二、三秒、その姿勢を曹丕に許した。それから未練もなく、しかし決して乱暴でなく手を引いて、すぐにたったいまの甘やかな表情を忘れたかのように、曹丕をせかした。

「――さあ、曹丕殿。この後にもまだ、余興がございますぞ」

「ほう……お前が余興のことを言い出すとは、珍しいな。いつも、つまらなさそうな顔をして坐っているだけだろうに」

 からかうような口調でいうと、とたんに照れたように頬を染めて視線をそらす。

「わ、私は……。ただ、貴方がお好きだろうと、思ったまでのこと」

 きまり悪げにつぶやく司馬懿の横顔に、なぜか胸を衝かれるような思いがして、曹丕は言葉をのみこんだ。
 口先のたわむれはたやすいのに、不用意に心が通じあってしまうと、とたんに応酬のすべを失ってしまうことが、もどかしくも甘い苦さを胸裏に拡げてゆくのを、曹丕はつかのま、ほとんど幸福のように感じた。

「……そうだな。余興があった。余興こそ必要なものだ」

 独り言のようにつぶやき、曹丕は立ち上がった。そして、これから戻る場に要求される、美しくも堂々たる象徴的存在となるための、見えない衣装をまとった。司馬懿もまた、同様の威厳ある態度へ立ち戻ったが、それは彼にとっては随分と簡単なことのようで、曹丕は心の中でそっと笑った。
 帳が取り払われた。
 曹丕はゆっくりとした足取りで階をおりた。司馬懿が続いた。
 宴の続きが待っている庭は明るく、敷石は見えない白い炎をふきあげているように見え、すがめた目の先に、白い砂の道はどこまでも続いていた。




足には黄金の靴を穿き



11/10/13 writeen by brief
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