やわらかな雨粒が、それよりなおやわらかな砂地を穿つ。絹糸がふれあうような雨音はひっそりと耳に馴染み、静かな、心のさわがぬ天の騒乱は、ふと、とりとめもない物思いをいざない寄せた。窓のそとは天も地もひとしく優しい水に濡れ、五月は、美しい氾濫の季節である。

「――司馬懿殿?」

 穏やかな声に名を呼ばれ、司馬懿はにわかに現実へ引き戻された。
 ふりむくと、見上げるほどに背の高い麗人が、盆に一揃いの茶器を携えて、優婉な微笑を浮かべている。

「あなたがそのようにぼんやりなさるとは、珍しいですね」

 そういって、麗人――張コウはもういちど微笑った。

「私のもとへお立ち寄りになってくださるのも、珍しい」

 炉には火が熾り、その上では小ぶりの鼎が、鈴を振るような澄んだ音をたてている。司馬懿はつと、そちらのほうへ目をそらして言った。

「いや、なに……散策の途中で、たまたまこちらへ足がむいただけだ」

「春の雨を愛でつつ散策、ですか……。さすがは司馬懿殿、優雅ですねえ」

 きまり悪げな司馬懿の表情には気づかぬ様子で、鼎に沸いた湯へ棗から茶葉を入れ、張コウは窓のそとへまなざしを投げた。
 温かな雨は濃艶な青葉をうるおしつつ、その鮮やかな色へけむるような紗をかけ、庭を黄昏でも夜明けでもない明るさに満たしている。
 やがて、淡い雨の匂いのなかに、茶の煮える香がただよいはじめ、張コウは長い睫毛を半ば伏せて、陶然とつぶやいた。

「ええ、たしかに、風情がありますね……。美しい……」

「うむ……」

 司馬懿は急いでうなずいた。実際のところ、ことさらに風流を貴んだりはしない彼だったが、目の前の典雅の権化のような男に、雨催いの庭を愛でる風情も解さぬ朴念仁だと思われるのは、やはり少々ためらわれた。
 そんな司馬懿の内心の葛藤に気づいたふうもなく、張コウは我に返ったように向き直ると、温めた陶の杯へ、鼎から煮立った茶を注いだ。
 司馬懿が杯を受け取ると、ほの暗い糠雨の午をはなやがせるような、華麗な香気が立った。水色は、美しい黄金色。窓の薄明かりに透かすと、淡い翠をひそませている。
 一口、喫して、司馬懿は感嘆の溜息をついた。

「美味いな」

 この男が馳走してくれる茶は、季節を限らず、いつも美味だった。茶葉や水の質とはまたべつの案配が必要なのだろうかと思ったが、それが具体的にどういうものなのかは、司馬懿にはわからなかった。

「――こころ、で淹れるのですよ」

 それこそ心を読んだかのような張コウの言に、司馬懿はわずかに驚きの眉をあげたが、鼎の湯気ごしの柔和なまなざしに、もう一度手のひらの中の杯へ目を落とすと、「そうなのか……」と、珍しくも素直に納得する気持ちが湧いた。

「なるほど、そういうものか……」

「…………」

 沈黙に視線をあげると、張コウは驚きを隠すように口許へ手を当て、しげしげと司馬懿の顔を見ている。

「な、なんだ」

「司馬懿殿が素直に……今日は珍しいことばかりですね」

「す――素直に感心して何が悪いのだ。馬鹿めっ」

「ふふ」

 張コウは、司馬懿の顔をのぞきこんだ。背が高いので、司馬懿と視線をあわせるために、身体を折り畳むようにしているにもかかわらず、その姿勢はあくまで優雅だ。
 おそろしいほどに整った目鼻立ちが、すぐ近くにある。司馬懿は少し気恥ずかしくなって顔をそむけた。

「……春の雨は優しいですが、それだけにかえって、人恋しさが増すといいます」

「?」

「こんな日は、宮中であなたを待ちわびておられるかたが、いらっしゃるのではありませんか」

 司馬懿ははじかれたように張コウを見た。間近で見るその表情は、じつに美しかった。決して大きな笑顔ではないのだが、芙蓉の花が咲いたようにあえかな微笑。

「だ、誰が待っているというのだ……」

 司馬懿は身じろいだ。なにがなし、言葉尻を口の中でのみこんだ。

「それは、あなたのほうがよくご存知のはずでは?」

 先ほどからこの男は、なにもかも見透かしているような物言いをする。司馬懿は唇を噛み、慍と顔をそらしかけたが、ただよう茶の香りのなかで、穏やかに静まった張コウのまなざしを受けると、その心もしぼんでしまった。
 いつも、そうだった。この男の茶を喫むと、妙にほだされてしまって、いたずらな感情がどこかに運び去られてしまう。だがそれは決して不快ではなく、ひょっとしたら自分はそのためにやってきたのかもしれないとすら、ふと思われてくる、不思議な瞬間だった。
 あとにはいつも、芳しい、花の香りだけが残った。

「いかがです、もう一杯」

「――あ、ああ。頂こうか」

 張コウ言うところの「待っている」、その相手を思い浮かべた途端、にわかに羽がはえたように逸りだした心を宥めつつ、司馬懿は差し出される二杯目の茶を受け取った。
 喫しながら、窓の外をふと窺うその目許へ、薄い焔のようにゆらぎながら溶け出した色があることに、司馬懿は気づかない。
 張コウはそっと睫毛を伏せ、しのびやかな微笑をその唇に刷いて、優雅な挙措で新しい茶の準備を始めた。
 糸のような雨は、けむるように音もなく降りこめていた。
 静かにあふれたつ、美しい氾濫の季節だった。




春霖の客



11/05/25 writeen by brief
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