つい先日まで、黄金を敷き延べたように辛子菜の咲きみだれていた野は、いまは見渡す限りの青い波だった。
いちめんに、萌え立つ草の香がたちこめている。
「噎せかえるようでございますな」
司馬懿がいうと、曹丕も頷いた。
丈の伸びた草の合間に遠く、石の鎌をふるう男たちの背がぽつぽつと見え隠れしている。
麗らに晴れた春の一日、一見して賤しくない身分と知れる青年の二人連れが、たけなわの花圃でも見るかのように、ただ生い茂る青草を眺めている様子は、不思議なものではあったろうが、雲雀は高く鳴き、遠景は陽炎にゆらめきたち、逍遙にはもってこいの陽気のことで、取り立てて人目をひくことはなかった。
「曹丕殿も物好きであられる。花の終わった野を見たいなどと」
歩みを進めるごとに、足元に踏みしだかれる草叢から、胸苦しくなるほどの草いきれが立つ。わずかにそよぐ風のなかに、刈り取られた青い草の激しいにおいが鼻をつき、司馬懿は軽く眉をひそめた。
「しかし、この香は……。少々、いただけませんな」
「……血の匂いだな」
唐突な言葉に、司馬懿は歩みを止めて曹丕をかえりみた。いつの間にか、あぜ道をはずれていた。草は晩春の微風にすら安寧を乱されるほどの丈に伸び、二人は膝の上まで緑の海に浸かった格好になっている。小首を傾げながら、司馬懿は問うた。
「血、……ですか」
「草木にとってみれば、血であろう」
いいながら、曹丕は手近な青草の茎を、たわむれに折り取った。ぱきりと小気味良い音がして、あふれた露が長い指を染める。青い香りが強く立ち、それは確かに、草木が迸らせる鮮血のようにも、見えた。
「なるほど、然様でございますな。――道理で、胸が悪くなるはずです」
納得したように頷きながら、司馬懿は懐から帛子を出して、曹丕に差し出した。
「私は、それほど嫌いではない」
だが曹丕は、当然のように色づいた指を差し伸べる。司馬懿はその手を取り、手際よく拭っていった。白い絹に、惜しげもなく鮮やかな青が滲んだ。
「曹丕殿は、よほど物好きであられる」
手首のほうまで拭い終え、ふと笑った司馬懿の横顔を陰らせるように、曹丕の顔が近づく。そのまま、驚いたように瞬く司馬懿の首すじへ、唇をふれた。
「痛……」
きつく吸われて、司馬懿が声を上げる。曹丕の肩をやんわりと押し返しながら、抗議するように横目で軽く睨むが、曹丕は喉奥で笑ってみせる。
「お前の汗も、血の味がするな」
「……ほんとうに、血がでます」
曹丕の唇が離れた首すじを、司馬懿は白い手で庇うように撫でた。曹丕は眼を細める。大地そのものから湧き立つような青い香は、何とはなし、ひとの官能を煽り立てた。
拭われたばかりの手で、曹丕はもう一度、辛子菜を摘んだ。そしてその、まだ僅かに黄色の花の散り残った一茎を、司馬懿の手に握らせる。
「どうだ、今夜」
わざと、ぞんざいに誘う。司馬懿が乗るわけがない。
「女人あいてになさいませ」
「つれないな。ならば、お前はいつ相手をしてくれるのだ?」
「それでも足りなかったときに」
「ずいぶんと高く売ることだ」
ふっと曹丕が笑う。その手にはまた新しい一茎がある。彼はそれを何げなく口許へ運び、白い歯をあてたが、すぐに「苦い」と顔をしかめて宙に抛った。
「物好きな方ですね……ほんとうに」
なかば呆れたようにつぶやきながら、司馬懿は指先に弄んでいた青い茎へ目を落とした。
名残の黄金が散りこぼれるのを、曹丕を真似て唇へ近づければ、草の匂いはなお濃く鼻先をよぎり、たしかに腰のあたりの落ち着かなくなる香だと、司馬懿は思った。
「行くぞ、仲達」
曹丕が歩き出す。司馬懿もその背を追う。
二人が分けてゆく翠波の彼方で、春の日はまるで青帝の鉾先に薙がれでもしたかのように、さかんな陽炎にけむり続けていた。