ひっそりとくすんだ午後が乳色の空から落ちかかり、鳥の物憂い啼き声も、さして静けさを乱さない。
おまえはだまって窓辺に椅りかかり、腕を組んで、薄日に耀く甍の波を見下ろしている。
どうやら、おまえは起き出したばかりらしい。薄暗い天蓋の中をのぞくと、絹の波のなかに、おまえの身体のかたちの円い空洞が、そのまま残っていた。
香炉からはしのびやかな薫香が立って、被衣を肩に引きずり、しどけない裸足で立っているおまえのまわりに、美しい紫蘭の薄霞が遊弋している。半ば放心したようにも見えるその横顔は、いまにも空へ溶け出していきそうに白い。
いつまででも眺めていたかったが、おまえが先にこちらに気づいた。
「……ずいぶんと、遅いお戻りでしたな」
空の上には風があるのか、白い雲がゆっくりと流されてゆくが、この窓辺にはどういうわけか微風ひとつ起こらない。凪いだ時間のなかを、芳しい霞だけがひっそりと揺れている。
「逃げなかったのか?」
問いながら、おまえのかたわらへ歩み寄る。おまえはわずかに目を見開いて、そして、笑った。
「さて……扉に鍵をおかけになってゆかれたのは、どなたでありましたか……」
「蹴破ればよいことではないか」
「そんなことをすれば、すぐに見咎められましょう」
「人は置いておらぬ」
「――――」
おまえが、わずかに息をのむ気配が伝わった。おまえの顔を見ないようにして、窓の格子に手をかける。近くの屋根の上で啼いていた鳥が、物憂げな翼をはためかせて飛び立った。人払いをしてあるが、鳥の出入りだけはとどめるすべもない。
連なる甍は、揺曳する幾千の漣になって、眼路の限りに続いていた。彼方の城壁のうえで旗が翩翻とひるがえっているのを見ると、風は地上にも吹いているらしい。けれどこの窓辺までは、その音さえ届かなかった。
寂寞を破って、ふと、衣擦れの音がした。おまえが、水面を辷る弔いの舟のように、窓辺を進む気配だった。
「……このうえまだ、仲達が逆らうとお思いですか」
静かな声に、首をめぐらせる。淡い日ざしを遮るように立ち、おまえは目を伏せていた。あの日、従容として白刃の下、首をさしだそうとしていたときのように。
「思いどおりになるばかりでは、つまらぬであろう」
「――――」
おまえのながい睫毛が瞬きに揺らぎ、つかのま、視線が絡みあった。
物憂げな羽ばたきが聞こえていた。物憂げに、無関心に、そして軽々と、くすんだ午後を横切ってゆく翼の音。――おまえの背にうすい羽影がさして、白々と冴えた横顔がまとう薄紫の霞が、逆光のなか、まるで天上の瑞雲のようにたゆたっていた。
「……仲達にはわかりませぬ」
そういいながらもおまえは、相手の男の惑溺の、段がついて深くなったのを、敏感に察知した女のような顔をして笑う。
空の白さはいまは木蓮の柔らかな白さを思わせた。
罰されないことは辛いのだろうか。
†
おまえは睡っている。
もともと細い頬がまたいくらか窶れ、削げたように見える。夢でもみているのか、時おり、眉根が癇性にぴくりぴくりと動くのが面白い。――こうしてみると、寝顔というものは怖いものだ。広大な世界のどこを探しても、自分が睡っているときの表情を知っている人間はいない。誰しもが、他人しか見ることのできない、無防備な貌を持っている。
牀褥は嵐のあとの捨小舟のように、あるいは忘れられた小さな島のように、午後の光の海にただよっている。窓の格子から、いくぶんか傾いだ光が金色の鱗のように降り、おまえのどこか拗ねたような、白い寝顔に揺れていた。
おまえがいっこうに目覚める気配がないのをいいことに、ゆるく乱れた衿をはだけさせる。啄まれたばかりの赤い痕が、胸から下腹部まで点々と、星宿のように続いているのが見えた。ひとつひとつ指でたどり、そのうち指だけでは物足りなくなって、唇をふれる。まだ少し汗ばんでいる首筋から、鎖骨の褶曲を匍い、胸の飾りをかすめて、平らな腹へ――さっきまであんなに火照っていたのに、いまはまるで、春の水面のように静まっている。このつつましい肌体が、ときとして蜜を漲らせ、こちらがもてあますほどに淫蕩になることなど、誰が信じるだろうか。
と、おまえが身じろぎをした。ぼんやり開いた瞼のしたで、おまえの眼が薄い刃物のように炯ったかと思うと、頬に笑みの影が走り、いつもの声で皮肉が飛んでくる。
「――良いご趣味をお持ちですな」
「なんだ、起きたのか」
「こんなことをされて、起きないほうがどうかしておりますよ」
そういいながらも、おまえは逃れようとするわけでもなく、じっと身体を横たえている。
どうせ見つかってしまったのだからと、あらためて覆いかぶさると、おまえの両腕が首へ巻きつく。手のひらがごく自然に、背中を滑りおりてくるのを感じた。ちょうど、貝殻骨の内側から、脇腹にかけて。ついで、肋骨の数を数えるように、ゆっくりと二度、三度、たどり返して確かめる。くすぐったさに堪えかねて、おまえの首筋へ咬みつけば、心地好げに声をあげて、身を捩る。
「逃げるな、」
きつく抱き締めると、おまえの金色の瞳に、陽炎が揺れる――蠱惑の深みへ誘おうとでもいうように。研かれた爪が、裸の胸を猫のように、掻いた。
「――思いどおりになるばかりでは、貴方はつまらないのでしょう?」
驕りに顎を持ち上げ、燃えたった唇で囁く獣の顔の、なんと美しいことか。
まだ新しい咬み痕のついた耳に舌を這わせる。下帯に手を入れる。下肢の奥にたしかな充溢。ゆるく握りこむと、おまえはちいさく笑った。
ふたたび奔放な時間のなかに溺れこみ、やがて浮上して、おまえの薄い胸の上に憩う。枕辺へは変わらず柔らかな黄色い光の紗がさしかかり、敷き乱れたおまえの髪を飴色に溶かし、まるで蜜の底をただようような、甘美な倦怠に染まってゆく。
午後の太陽が窓の格子ごしに傾いだ光を降らせるとき、金色の鱗をまいたような床のなかでおまえは、よく光る牙を伏せて、木洩れ日の斑のなかにまどろむ虎のようだ。虎の胸を枕に、わたしは眠る。