「仲達」

 そう名を呼んで手を伸ばして、つややかな黒髪をひと房、握る。
 たったそれだけだというのに、司馬懿の薄い肩はあからさまに強ばった。
 かまわずに細い腰を抱き寄せると、邪慳な肘が胸を押して遠ざけようとする。
 それでもくじけずに頬を撫でようとした手を憤然と振り払い、司馬懿は形のよい眉を吊り上げてこちらを睨みつけた。

「――おたわむれはおよしになってくださいと、幾度申し上げれば聞いてくださるのです、曹丕殿」

 ほとんど挑みかかるような視線と語勢に、曹丕は、しかし愉しげに目をほそめて気の強い臣下をながめやった。

「つれないな。たわむれではなく、本気で言っているというのに」

「…………」

 言いながら肩をすくめる曹丕の表情を見据えたまま、司馬懿はむっつりと黙りこんだ。その眦の色がみるみるうちに濃く染まっていくのをみとめて、曹丕は腹の中で北叟笑む。
 磨りたての墨をたっぷりふくませた細筆を、ひと息にすべらせたような切れ長の目許。そこに、常から独特の気色をたたえている司馬懿だが、その眦は不機嫌になればなるほど艶を増し、どういう加減か、まるで驕慢な女のような眼になることがある。曹丕にはそこがたまらないのだが、本人に言うと間違いなくへそを曲げるので、敢えて口に出したことはない。
 もう一度、今度は司馬懿の耳元へ唇を寄せて、ささやくように告げる。

「……たわむれではない。私はいつも本気だ」

 言い終えぬうちに、司馬懿の眉墨を補ったような美しい眉が、さらに厳しい鋭角を描いた。その下で、みがかれた琥珀のような瞳が、昂りに燃えたって黄金に潤む。鋭く切れあがった目縁に深い紅色が漲って、白いこめかみにまでにじんでいくような錯覚に、曹丕は心の中で陶然と声をあげる。

(ああ、その眼だ)

 まなざしから、けむりたつような、色。憤ってみせているつもりの自分の眼が、今この時、あろうことか蜜をしたたらせていることなど、彼は知らないだろう。知れば、羞恥のあまりに絶え入りそうな表情を見せるに違いない。
 だが、その色気が却って彼を、豺狼の眼となることから救っているのだ。

(おまえは知らない)

 知っているのは、自分だけなのだ。
 そう思うだけで、不思議なほどの喜びが曹丕の総身をみたした。その頬のうえを、翳りのある甘い微笑いが、ほんの一瞬、滑るようにして消える。
 そんな曹丕の表情を、司馬懿は眉根を寄せたまま、いぶかしげに見ていたが、再び視線があうと、ふと頬をそめ、目をそらした。そうして、ほとんど不貞腐れたような声音で、ぽつりとつぶやく。

「……どうせそれも、たわむれでございましょう」

「さてな」

 韜晦の笑みを唇に刷き、自儘にならぬ臣下の薄赤い頬へ、そっと手の甲を押しあてる。その手が振り払われなかったことにわずかな満足を得、曹丕は今度こそ司馬懿の細い胴を抱き取るべく、ゆっくりと両の腕をさしのばした。


(私がおまえにたわむれを仕掛けられるはずがないことを、おまえだけが知らない)




たわむれ



10/06/24 writeen by brief
back to top




司馬懿の目許の色味って独特だよなといつも思う
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -