無数の炬火が夜をおおっていた。
 まるで昼のように明るい城郭の内を、兵馬が絶え間なく行き交う。城壁には旒旗がたなびき、まるで夜の底から湧きあがるかのような干戈のとよみが、出師の間近さを物語っていた。
 まさに戦に臨まんとする軍の、緊張と高揚が渾然ととけあった、ふたつとない独特な空気が、彼は好きだった。さらに今回は魏王の親征ということもあり、軍列の壮麗さは考えるだけで心が踊るほどのものだろう。それだけに、自分がその熱気のなかに身をおけないことが、彼――曹丕には、いささか残念であった。
 曹丕が見おろしている宮殿の庭で、篝火が、ひときわ大きな音をたてて爆ぜた。舞いあがった火の粉はあざやかに散り、宙空へ溶け去る。そのようすを何げなく眺める背中に気配を感じた彼は、振り返りもせずに、みじかく告げた。

「仲達か」

 それは誰何ですらなく、ただ確認だった。勿体ぶった歩調も裾の捌き方も、腹心のその男のことならばすべて憶えている。今、背後で彼がどんな挙措をとっているかすら、曹丕は思い描くことができた。そして、次に彼が発する言葉も。

「曹丕殿、お暇をいただきにまいりました」

 よく通る声がそう告げ、はじめて曹丕はふりむいた。外の火明に対してひどく暗い室内に、彼の腹心――司馬懿の白面がうっすらと浮かんでみえた。
 この戦において司馬懿は、曹操のたっての指名により、参謀のひとりとして従軍することになっていた。
 つい先ごろ正式に魏王の太子として立てられた曹丕は、当然のごとく首都の守りを任されている。
 司馬懿を曹丕の下につけたのはもちろん曹操ではあるのだが、だからといって、今は自分の右腕となった男をまた無造作に引き抜いていくその遣り方は、いくら相手が父であっても、正直なところ業腹だった。が、献策が曹操の目にとまってしまったのでは仕方ない。才を埋もれさせることは、魏王の最も厭うところなのだ。

「此度の出師は、どれほどになろうな」

 抑揚のない声で、曹丕は問うた。どれほど、とはもちろん日数のことだ。司馬懿は打てば響くというように、こたえた。

「さほど、時はかからぬと存じます」

 そういって、求められるままに臆見を語りはじめる、その言葉は慇懃だが、司馬懿の態度の端々には、隠しきれない才気がにじみ出ている。
 曹丕は黙って、司馬懿の声を聞き、その整った顔を見ていた。司馬懿は語るうちに熱してきたのか、静かな、けれど猛々しい自負が、権高な鼻梁を挟んで底光りのする金の瞳から、あふれてくるようだ。
 ずいぶん娯しそうな顔をしているな、と思った。
 思ったとたん、奇妙なほどの苛立ちが喉の奥まで苦く込み上げ、曹丕は腹の底で舌打ちをした。
 なぜ、そんな顔をしていられる――そう問いつめたくなるのを無表情のまま抑え、曹丕は頷いた。

「わかった。お前の才、戦陣においても非凡であること存分に示せ。――せいぜい父を輔けてくるがいい」
「はっ。非才の身ですが、せめて軍議の末席を汚さぬよう、つとめてまいります」

 言葉こそ殊勝げだが、整った面立ちに澄ましかえった表情を貼りつけた司馬懿の様子には、やはり小面憎いほどの余裕がある。
 こうして澄まし顔をしている時の司馬懿が、曹丕は平素、決して嫌いではなかった。それは彼の怜悧な容姿に似合っていたし、いかにも勿体ぶった様子に多少のおかしみもあって、心ひそかに愉しんでいたものである。
 だがいまは、わずかな名残惜しささえ気振りにも見せないその顔が、いっそ憎かった。

「……曹丕殿?」

 気づいた時には足が動いていた。
 無言のまま、すぐ目の前まで近づいてきた曹丕へ、司馬懿は怪訝そうに首をかしげた。
 無造作に手をのばしてその顎にかけると、司馬懿の顔色がわずかに変わる。

「曹丕、殿」

 平静を装おうとしたのだろうその声が、それでも少しばかり上ずっていて、曹丕は腹の中で満足げに笑った。

「しばし、別れだ。少しは名残を惜しませてくれてもよかろう」
「……!」

 目を見開いた司馬懿の唇が諫める言葉を吐くまえに、自分の唇でふさいだ。
 食いしばった歯列を無理やりにこじあける。ねじ込んだ舌を噛まれるかと思ったが、濡れた舌先が触れあうと抵抗はやんだ。そのまま絡めとり、われながら執拗いと思うほどにねぶると、薄い背が面白いほど震える。司馬懿の指が、取りすがるように曹丕の腕にすべった。

「ん、ふ……」

 朝に焚いた香だろうか、司馬懿の身体からは薄れかけたあわい薫りがした。その残り香に鼻先を埋めるかのように、ますます接吻を深くすると、その大半が空に溶け去ってしまった香のなかに、ふと、名残のように強い香気が交じる。曹丕は薄く眼をあけた。喩えるならばまるで百合の花蕊の香でもあるような、――ほとんど猥らとでもいいたいようなそれは、司馬懿の衿のあたりから立っているようだった。曹丕は口をあわせたまま、その衿元に、そっと指をさしこんだ。

「……っ!」

 ようやく唇を離すと、司馬懿は膝の力がぬけたかのように体勢をくずし、曹丕の腕にすがった。髪からのぞく白い首すじがうっすら上気している。荒い息の下で、

「なにを……なさいます」

 と、ひと言だけを囁いて、横目に曹丕の顔を窺う、その眦が濃い色に潤んでいた。――この怜悧な男は、口をきかずとも事足りるほど、ひどく饒舌な眦をもっている。困惑している、それがありありとわかった。先ほどまでの余裕を取りつくろうこともできないらしい姿に、曹丕は少しだけ、溜飲を下げた。
 そして司馬懿の衿からぬきだした手に、視線を移す。その指先は、小さな布のようなものをさぐりあてていた。
 香袋だった。

「お前の薫りはこれのせいか?」

 曹丕の肩に額をつけたまま、息を乱している司馬懿に、問う。司馬懿は濡れた眼を横へ流して香袋にとめると、

「え、ええ……。そうだと、思いますが」

 と、曹丕も所持している、なんの変哲もない香の名を挙げた。だが、記憶のなかのその薫りと、先ほど司馬懿の身体からくゆった香気が、同じものだとはとても信じられなかった。不思議に思いながら、曹丕は香袋に鼻を近づけた。だが、司馬懿の身体から離れてしまったそれは、もはや、ただのありふれた香木の匂いしか発しはしなかった。
 それでも、なおも手のなかの香袋を見おろしていた曹丕は、やがて、ぽつりといった。

「私にくれぬか」
「え?」

 ようやく体勢をととのえ、曹丕に乱された衿を直していた司馬懿が、怪訝そうな眼をあげる。曹丕はほとんど独り言のように、続けた。

「……お前がいないあいだは、これで、お前のことを想い出す」

 言いながら、曹丕はだんだんと面映ゆいような気分になってきて、口をつぐんだ。先ほどからずいぶんと子供っぽいことをしている自覚はあったが、これでは、まるで――
 かれは心の底で苦く笑うと、香袋をのせた掌をかたく握った。そうして、司馬懿の視線から逃れるように顔をそむけた。

「引き留めたな、許せ。……行ってこい。身体をいとえよ」

 そういって片手を振り、曹丕はふたたび窓際へと歩んだ。
 炬火に赤く焦がされた天に、月はない。林立する長槍が黒い葉むらのように影を落とす地には、江のうねりのようなざわめきが満ちている。明日の朝になればながい列をなして発ち、やがて赫赫たる武勲をあげて帰ってくることを約束された軍旅。
 火影に愕きでもしたのだろうか、馬の嘶きが遠くに聞こえた。
 ――だが、それからしばらくしても、退出を許されたはずの司馬懿がなおも背後で動く気配をみせないことに気づき、曹丕は怪訝な面持ちでふりむいた。

「仲達?」
「……その、」

 ため息のような声が漏れた。司馬懿の、ふだんは色のないうすい唇が、先ほどの接吻の名残か、朱に染まっている。言葉の調子も珍しく歯切れが悪く、戦について語っていたときの熱した口ぶりからは考えられぬほど、弱々しい。

「できたらで……よろしいのですが」
「なんだ、」

 曹丕は問い返した。司馬懿は彼のいる窓辺に歩み寄ってくる。痩せた姿の輪郭が、外の灯明にくっきりと浮かびあがる。その頬がほの朱く見えるのは、篝火の反照のせいだけだろうか。曹丕と向かい合うように立った司馬懿は、しばらくのあいだ逡巡するような様子をみせていたが、やがて意を決したように顔をあげると、ほとんど囁くような声で、だがはっきりといった。

「私にも、曹丕殿を思い出すよすがを……くださいませぬか、」

 曹丕はしばらく、言葉を失った。一瞬、耳がおかしくなったのかと自分を疑う。聞けるはずがないと思っていた言葉が、あまりにも容易くこぼれでた、その唇をまじまじと見つめると、司馬懿は赤くなった顔をうつむけて、ついと目をそらした。

「…………」

 やがて、曹丕は笑った。愚かな真似もしてみるものだ。先ほどとは違う種類の面映ゆさが一気にこみあげてきたが、それを振り切るように、彼は腹心の細い胴を抱きとった。

「曹丕殿」

 ふたたび衿を開かせる。夜目にも白い肌に鎖骨が薄く浮いている。首筋に顔を近づけると、先刻と同じ、あの薫りがした。百合の花蕊がこぼした蜜を、肌のぬくもりで溶かしたような――惑溺を誘う、香。
 蝋をぬったようなその肌に、曹丕はゆっくりと唇を落とした。

「痛……」

 司馬懿がかすれた声をあげたところで唇をはなすと、首すじに紅い華がくっきりと咲いている。それを舌先で突きながら、曹丕はことさらに意地の悪い声で囁いた。

「餞別だ。これが消えるまえに、帰ってくるがいい」
「ああ……、このような場処に……。見えてしまいます、」

 羞じらうような声音のなかに、いくらかの媚があって、それが曹丕をまた煽る。長い髪をかきあげ、のぞいた耳朶に咬みつくと、細い腰が悶える。愛しさに似たなにかが背筋を突き抜け、熱い吐息となって夜気のなかへ溶けた。

「ならば見えぬところに刻んでやろう。たっぷりとな」

 耳許で含み笑えば、見る見る頬から耳にかけて紅潮し、饒舌な眦が生臙脂にそまって、眼を、唇を、誘う。
 司馬懿は陶然としたように、なかば唇をあけた。出立まではまだ間がございます、曹丕殿。
 吐息にまじった声をみなまで聞かず、その体をきつく抱き締めて、曹丕はひそやかな歓喜の表情を、無数の炬火から隠した。




惜別之香



10/02/21 writeen by brief
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