「杏寿郎さん」

煉獄さん、と呼ぶのを止めたのは弟と見分けがつかなくなるからだった。私は「煉獄さん」と「煉獄くん」で、呼び分けていたつもりだったが、ややこしいと煉獄さん。いや、杏寿郎さんが言ったので名前で呼ぶようになっていた。

「ああその、なんだ」

私たちは白に包まれた世界にいる。上を見ても下を見ても、そこはどこまでも白が広がっている。おまけのようについた窓から見えるのも白。外には雪が積もっている。

「まさか、そんなに眠っているとは。分からなかった」

数か月振りに目を覚ましたからだろう。快活な印象は随分と薄れ、言葉を出すにも少し億劫な様子すら見えた。ふわふわと、いつだって干したての布団のような髪はぴったりと頭の形に寄り添って、それはもう洗われたねこのようにしぼんでいた。(人は二か月も寝たきりだと、いくら定期的に寝返りを打たされても髪の毛が頭の形になるのだ!)

「謝る事でも、謝られる事でもないから。良いんです」
「だけど君は、どう見たって怒っているだろう」
「怒っているわけじゃ」
「じゃあ、どうしてそんな顔をするんだ」

そんな顔ってどんな顔だと思った。思わず、置かれた花瓶に反射する自分の顔を見てみたが、それは湾曲していて表情なんて分かったもんじゃなかった。湾曲された自分の顔はいつもよりとてもぶさいくに見えたので、なんだかもやもやとした。ここで既に、一体なんの為に花瓶をみたのか忘れていた。私はとても、注意力が散漫なのだ。

「私、とても悲しかったんです。杏寿郎さん、帰ってきたら私とお団子屋さんに行くと約束してくれたでしょう」
「ああ、覚えている」
「待っても待っても帰ってこなくて、お家までいったんです。そうしたら煉獄くん。じゃなくて、千寿郎くんが泣いているし、杏寿郎さんが大変だって言われて、私、走って蝶屋敷まで来ました」

私は杏寿郎さんが寝ている間ずっと起きているのに、話すのが全然まったく、上手くない。でも、杏寿郎さんが気にしていないようなので私はあまり深刻に考えていなかった。(話したい相手だけに伝わればいいと、思っているからだ。)

「もう泣いて泣いて、涙も枯れてしまいました」

こういうと、ただ団子屋に行けなくて泣いたみたいに聞こえるだろうか。でもそれは違う。私は杏寿郎さんが目を覚まさない事に泣いていた。確かに団子屋に一緒に行けない事はその涙の理由でもあったが、それはほんの少しの割合だ。
杏寿郎さんは担ぎ込まれた次の日も、その次の日も、大きな目の上にある瞼は閉じられたままだった。すうすうと寝息は聞こえていたし、胸だって上下していたからそれは絶対に生きているのだけど、急に止まってしまいそうな気がして、毎日毎日千寿郎くんと一緒に見舞いにきた。そして今日で二か月と十四日だった。

「すず乃くんはいつだって泣き虫だった」

懐かしむように言ったが、懐かしむほど昔に泣いた記憶はなく。杏寿郎さんと最期に会った日も、私は泣いていた。それはとても仕様もない事だった。仕様もなさ過ぎて内容は忘れてしまったくらい、仕様もない事だ。(私のあげた懐紙を忘れたとかそんな事だったと思う)

「泣かすのは、いつだって杏寿郎さんです」

杏寿郎さんはいつだって今だって笑っているが、私には笑い事ではないことばかりだった。背中に大きな傷を作ってきた時(あれはそう、風柱のようだった)、私の大切に取っておいた千寿郎くんが握ってくれたおかかのおむすびを食べられた時(これで泣いたのはさすがに大人げなかったかもしれない)、最終選別へ行った時、そして帰ってきた時、私が転げた時に負うてくれた時。小さなことから大きなことまで、嬉しい事から悲しい事まで、杏寿郎さんは私を泣かす天才だったし、私を喜ばす天才だと思っている。

「夢の中でも、君は泣いていたよ」
「夢の中でも、私を泣かせているんですか?!」
「悲しいと泣いていたから、早く起きないといけないと思って。目が覚めたら、また泣いていたから驚いた」
「これは嬉しい方のやつですから、許します」

枯れていた涙がキラキラと、おはじきのように。ぽろぽろと頬を転げて、地面へと落ちて砕け散った。白い世界に涙が散らばって、二人の世界には色が戻ってきた。


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