コーヒーの匂いは好きだ。インスタントの匂いも好きだけど、粉から淹れるこの香ばしいような匂いが好きだ。
それを入れる杏寿郎さんの姿も好きだ。骨はしっかりしているけど、綺麗な手をしている。長い指がコーヒーフィルターを付けて、スプーンで粉を入れる。そこにゆっくりとお湯を流し込む。数回に分けてお湯を注ぐと、じわじわとコーヒーの匂いがソファまで香ってきて、ああ杏寿郎さんの家に来たんだなあって思う。
マグカップに自分の分だけコーヒーを入れる。私にはほんの少しのコーヒーにたっぷりの牛乳。カフェオレというにはおこがましいくらいの牛乳の量。お願いして最初に作ってくれた時の杏寿郎さんは、9割の牛乳に驚きを通り越して若干引いていたんじゃないだろうか。
だって、コーヒーは苦くて飲めないんだもん。でも、ほんの少しだけでも入れると、このいい香りを楽しめて、一緒に飲んでいるような気分にもなれるし一石二鳥。

杏寿郎さんがマグカップを二つ持って、ソファの定位置へ座る。私が左側、杏寿郎さんが右側に。ここに引っ越すのを決めた時に二人で決めた少し大きめのソファ。余裕がある大きさなのに結局二人して寄り合って、触れあうように座ってしまうから広いのか狭いのか分からないけどこれでよかった気がする。
杏寿郎さんは私に牛乳たっぷりのカフェオレ入りマグを渡すと、湯気が立つ熱々の自分のコーヒーに唇を尖らせて息を吹きかける。熱いのならぬるく入れればいいじゃないかと言ったことがあった。でも「コーヒーは熱々なのが美味いんだ!」と言った。よく分からないけど、こうやってマグカップに向かう可愛い仕草も好きだから、それ以上余計な事は言わない事にした。

「何をそんなに見ているんだ?」
「んー、コーヒー好きだなあって」
「昔はそこまででもなかったんだがな」

やっと冷めたコーヒーを一口運んで言った。確かに、付き合いたての頃はここまでコーヒーを飲んでいた印象はなかった。いつからだろうか、こうやって遊びに来る度にコーヒーとカフェオレを入れてくれるようになったのは。少なくとも1年は経つ気がする。だって、あのドリッパーのセットを使い始めたのは一年前の誕生日。それをあげたのは私なのだから。

「苦くないの?」

何度も聞いた疑問を問いかける。返事が分かっているのに聞いてしまうのは、未だ自分がコーヒーを飲めなくて、それを飲む人の気持ちを理解できないからだろう。

「苦いぞ」
「苦いのに飲むの?」

これも馬鹿の一つ覚えみたいに聞いた言葉。何度も聞いているのに、杏寿郎さんは初めて聞かれたかのように返事をしてくれる。これじゃあまるで先生と生徒だ。思い返せば私は小学生の時にも先生に何度も同じ質問をしては、困らせていたっけ。面倒な子供だったに違いない。そして大して成長していない自分にちょっと呆れる。杏寿郎さんが先生じゃなければ、とっくのとうに一蹴されそうだな。

「まあそうだな。コーヒーは苦いから美味しいんだ」
「そういうもんなのかなあ」

自分のカフェオレを飲みながら、机に置かれた杏寿郎さんのコーヒーをまじまじと見る。黒い液体には天井のライトがゆらゆらと映る。こんなにいい匂いなのに、どうしてあんなに苦いんだろう。角砂糖でも入れたらマシになるかな、なんて思っていると杏寿郎さんは私を見て笑った。きっと私の思考を読んで笑ったに違いない。

「砂糖は入れないぞ。まあ、袖ヶ浦みたいなお子ちゃまには分からんだろうけどな!」
「ふーん。別にいいですよーだ。分からなくったってー」

砂糖のくだりまで見透かされているとは思わず。ついつい憎まれ口をたたく。わざとらしく膨れっ面をしてみると、杏寿郎さんはやれやれと言わんばかりの表情を浮かべる。
もうちょっと不貞腐れてやろうと顔をそむけ視線を下げる。目に入るのは真新しいフローリングと、机に並ぶ二つのマグカップ。このマグカップは今年の初めに旅先で買ったお揃いの美濃焼の物。またどっか行きたいなあ、なんて思っていると、杏寿郎さんのマグカップが机から離れる。

「袖ヶ浦」

優しい声で名前を呼ばれる。こんな風に呼ばれたら、不貞腐れてなんていられなくなる。声の方へ振り向くと、すぐ目の前にあった杏寿郎さんの顔。口を開こうと思って開いた隙間に触れる、杏寿郎さんの唇。頬にかかる髪の毛がちょっとだけ、くすぐったい。

「ん、」

零さないようにいつもよりもぴったりとくっついたそこから流れ込むのは、杏寿郎さんの口の中でぬるくなったコーヒー。舌に乗ったときは確かに苦かったはずなのに、その後にすぐやってきた杏寿郎さんの舌で味なんて分からなくなる。

「苦いか?」

舌で唇に残ったコーヒーを拭う仕草がズルいくらいにセクシーで、こっちが恥ずかしくなる。杏寿郎さんの言葉に、なんて答えようか考える。苦いんだけど、でも味気ないくらいさっさと去っていった唇が名残惜しくって。私はもう一度、おねだりをする。

「……わかんない。だからもう一回」
「仰せのままに」

杏寿郎さんは笑った。そして、コーヒーを含んだ唇が優しく触れる。唇から伝わるそれはさっきと同じで苦いはずなのに、杏寿郎さんのせいで甘く甘く感じてしまう。
だから私は離れてすぐ、馬鹿の一つ覚えみたいにもう一度欲しいと強請ってしまう。


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