キリリク小説 | ナノ

万有引力

世界は引力と斥力で作られていると思っていた。

それですべてが語れると信じていた。

世の中は

好きと嫌い

善と悪

正と負

上と下

生と死

二分されるべきものだと感じていた。疑わなかった。


だから、僕が蒼(そら)に対して思う気持ちは、引力の一つとして、世の中の小さな事象にすぎないと思っていた。






――これは癸成(みずなり)がまだ神流(こうる)たちに出会う前、世界が戦争に混乱していた最初の頃のお話。







「・・・痛む?」

薄暗い部屋の中、癸成は薄茶色の毛布に包ってへたり込んでいる蒼を抱きしめて問うた。

「だいじょうぶ」

顔もすべて覆いかぶさっていて表情は読めないが、蒼は少し震えた声で答えた。

明かりのない部屋には、スタディデスクの前にある窓からの月明かりだけが床に向かって伸びていた。青白く、弱弱しい光だった。


近くのデスクの上に広がる専門書や辞書、電源の入ったノートパソコンをちらりと見やり、

「邪魔してごめんね」

と蒼は呟いた。

「いや、構わないよ」

癸成は眼鏡をはずし、腕を伸ばしてデスクに置いた。

「・・・」

「・・・」

二人はそのまましばらく沈黙したまま、体を寄せ合っていた。

「・・・ごめんね」

「なにが」

「いろいろ」

「色々って」

「迷惑かけて」

「かかってないよ」

「勉強してるとこにやってきたり」

「構わないって」

「・・・ありがとう」

震えが落ち着いた蒼から体を離し、癸成は立ち上がった。

「救急箱持ってくるよ」


*****

小さい頃から、僕たちはよく遊んだ。活発で天真爛漫だった蒼と、内気で、人の後ろに隠れてしまう僕たちはいつも一緒だった。
蒼が僕を助けてくれてたと言ってもいい。周りからは「蒼ちゃんは癸成ちゃんのお世話大変ね」と囁かれていた。男として辛かったけど、それでも僕は何も言い返せなかった。でも、蒼は、それでもずっと一緒にいてくれた。

「癸成ちゃんはあたしが守ってあげる」

小さい頃の僕にとって、蒼はすべてだった。


何かが、少しずつおかしくなったのは僕たちが中等学校に入る頃だった。


蒼は勉強もよくできた。僕もよく教えてもらっていた。だが、中等学校に入ってから蒼の成績はみるみる落ちていき、最下の矯正、僕は特進クラスとなった。

「えへ。やっぱ小学生とは違うね」

そう言って蒼は特進の僕を褒めてくれた。

そしてしばらくして、蒼は学校も休みがちになった。





蒼の家へ行っても、蒼には会えなかった。

「ごめんなさいね・・・会いたくないって」

玄関で対応してくれるおばさんに、僕は頭を下げた。

蒼の家の帰り道、振り返って見上げた蒼の部屋から少し顔を出す蒼が見えた。

「・・・」

泣いていた。

顔を何倍も腫らし、僕をじっと見ていた。

「蒼!」

僕は来た道を戻り、蒼の家のドアを叩いた。

誰も対応してくれず、中からは怒声と何かが壊れる音。悲鳴。
蒼の――

「蒼!!」

ドアの前で膝をつき、自分の無力さを呪った。

それから、何度蒼の家に行っても、僕に限り誰も出てこなくなった。
小さい頃、あんなにやさしかったおばさんの怒声。聞きなれない汚い言葉。
仕事帰りのおじさんにすがったこともあったけど、笑顔で拒否された。
「うちのことはほおっておいてくれ」
と。そして皮膚と皮膚がはじけ合う音。
謝る蒼の声。

だめだ。

自分がかかわることで蒼に被害が及ぶ。

そう悟った僕は蒼の家に近寄ることはなくなった。

腫らした顔の蒼が、一度だけ学校にやってきたことがあった。
周囲の人間はみな噂話を始めた。
誰も蒼に近寄らなくなった。


「蒼」

「・・・」

声を出すのも辛そうだった。口の両端が切れていた。

「蒼の家には行けないけど、蒼が僕のとこに来て」

「・・・」

「いつでもいいし、どんなときでもいいから。ずっといるから。絶対来て」

蒼はぽろぽろと涙をこぼした。

「ごめんね、蒼」

こんなことしかできなくて・・・

蒼はふるふると頭を振って、小さく「ありがとう」と言ってくれた。

それから蒼は学校を辞めた。



****

蒼が学校を辞めて2年が過ぎ、僕は高校受験が間近に迫っていた。

この日までは、普通に高校生になるんだと思っていた。

「手、出して」
蒼のか細い腕が毛布から伸び、癸成の前に出てきた。
大きな蚯蚓腫れがいくつも連なり、変色した上にさらに新しい傷が浮かび上がっていた。そこからはじけた血液が赤黒く固まっていた。

「しみるよ」

傷の上に消毒液を含ませたコットンを置き、やさしく拭いてやる。

「〜っ」

歯を食いしばって耐える蒼。

「我慢しなくていいよ、ほら」

毛布をはがし、背中からブラウスをめくった。キャミソールを下からめくり上げ、肩甲骨についた青あざを確認する。

「これ、痛い?」

浮き上がった背骨の上に手を置き、作った拳でその上をとんとんと叩いていく。

「だいっ、じょうぶ・・・ちょっと痛い」

「響く?」

「っ・・・響かない」

キャミソールを下ろし、癸成は青あざに軟膏を塗り、ブラウスを戻した。

「顔は」

右頬が少し腫れていた。

「・・・氷、持ってくるよ」

もう一度立ち上がる癸成はちらりと蒼の足首を見た。

踵側に包帯が巻かれていて、黒い血のシミが出来ていた。



逃げられないようにと、アキレス腱を切られそうになったときの傷だった。

深く切られなかったのでよかったものの、まだ薄い皮膚と皮膚がくっつききらず足を引きずって歩いている。

こうやって逃げることさえ、蒼の両親は奪おうとしている。


癸成は唇をかんだ。

物事はすべて引力と斥力で話ができる。

蒼と僕が引き寄せられるのも引力で

蒼と両親が離れられないのも引力だ

僕が蒼の両親に近づけないのは斥力で

蒼が僕以外の人間に接触できないのも斥力が働いているからだ。


そう思っていたんだけど。




****

傷の手当てが済むと、蒼は毛布を被り直し癸成に抱きすくめてもらうよう誘導した。

癸成も、誘われたとおり毛布ごと蒼を抱きしめた。

「痛くない」

「ありがと」

「ねえ、蒼」

「何」

「うちにずっといなよ」

「だめだよ。邪魔になるし」

「ならないよ。ここにいればいいよ」

「無理だよ」

「無理じゃない」

「・・・ごめんね」

窓には大粒の雨が当たる音。
月はすっかり雲に隠れていた。部屋の中には明かりは一切なかった。

地下反乱軍に出入りするようになったのもこの頃だった。
殺傷能力の高い武器の調達に、地下での情報収集。
高校受験では大よそ習得するはずのない裏の世界。そこで購入したジャックナイフを手に取り、癸成は変わっていく自分に興奮した。





雨がひどくなっていく。

癸成の家から再び実家へ戻り、蒼は自室で一人窓の外を見ていた。
夕暮から闇に包まれる瞬間を、蒼は目に焼き付けておこうと思った。

「・・・」

階下で悲鳴が聞こえた。

ガラスが弾ける音に何かが砕ける金属音。そして


蒼は部屋を出て階段を駆け降りた。




「・・・癸成ちゃん」

「蒼」

庭に面した大きなガラス戸が割られ、リビングに散乱していた。

癸成は登山用のブーツを履いていて、足元には見慣れた顔。そして癸成の手には折りたたみ式のナイフ。

「・・・」

近寄る蒼の目に飛び込んでくる母親の絶命した顔。

「お母さん!」

何度も突き刺されたであろう真っ赤な胸。

「蒼・・・」

「癸成ちゃ・・・」

足を引きずりながら、駆け寄ってくる蒼を、癸成は受け止めた。

「やっぱり、一緒じゃなきゃだめだ」

「癸成ちゃん」

鉄の匂いのする癸成の胸の中で、蒼は目を閉じた。

「ただいま」

傘を閉じドアを開け、電気がついていないことに不審に思った。

「おかあさん?」

妻を呼ぶが返事はない。

靴を脱ぎ、リビングへ足を入れた。びゅうっと冷たい風と雨の匂いがした。

電気をつけようとスイッチを入れるが光は生まれず、何とか凝らして見つけた娘の姿はソファにあった。
ソファの上に足を折り曲げ、膝に顔を埋めいていた。

「おい」

娘を呼ぶが返事はない。

「おいっ」

鞄を放り投げ、怒りをこめて足を進める。

「おいって」

乱暴に蒼の襟首に手をかけた。

一瞬その手に鋭い痛みを感じた。手首から先が熱く、神経すべてが集中した。

「その手で何回叩けば気が済むの」

「えっ!?」

暗闇から声がして、心臓がどきりとした。

そして生暖かいものが足の甲に落ちる感覚。

見えないが何かを感じる。そして鉄の匂い。

「っ」

間接照明に照らされ、まぶしさに目を瞑る。光を遮るために振り上げた腕が重い。

なんだ。

いったい何が起こってるんだ。





「・・・」

慣れてきた眼で見る光景は、これで最期だった。手首から流れ、足に落ちる真っ赤な血。足もとにある妻の死体・・・

「さようなら」

聞いたことのある声と、鋭い痛み。侵食していく腹への鈍痛。

体が重く、立っていられなくなって膝をついた。
腹から染み出る赤。
背中に何度も感じる衝撃。

ドスドスドスドスドス

薄れていく意識・・・







癸成は何度も何度も背中を刺した。

蒼はずっと泣いていた。

癸成の処分は保護観察ですんだ。

自分の子供に対する何年にもわたる理由なき虐待、それに対する幼馴染の行動に、情状酌量の余地が与えられた。
蒼自身も、「癸成がやっていなければ私がやっていた」と長年の殺意を認めた。

進学高校への受験の道は閉ざされたけど、そんなことはどうだってよかった。


二人の間に、斥力が生まれる心配はなくなった。

そう思っていた。





****

「蒼に会えない?」

保護司は頷いた。

「どうして」

「犯罪性のある者又は素行不良の者と交際しないこと。そういう決まりです」

「は?意味がわからない」

「もう会うことはできません」

「・・・蒼はどこ」

「言えません。もちろん双方に情報は与えられません」

癸成は部屋を飛び出した。

「待ちなさい!」







薄いスモークの貼った車に、蒼は乗ろうとしていた。

「蒼!」

癸成の姿を確認し、蒼が乗るのをためらう。

「入りなさい」

保護司に窘められ、蒼は乗り込む。

「蒼!!」

閉められた窓に、癸成はへばりついた。

「蒼!蒼!」

保護司を挟んだ奥で、蒼が泣いている。

「蒼!」

蒼が何かを保護司に頼んでいる。
癸成は後ろから、別の保護司に車から離れるよう羽交い絞めにされる。

スモークの貼った窓が下がった。

「蒼!!」

「癸成!」

掌が重なる。

「蒼・・・蒼・・・」

どうして引き裂かれるんだ。
斥力が働くのはなぜなんだ。
排除したはずじゃないか。
どうして。

「癸成・・・」


蒼は癸成の額に自分のそれをくっつけた。

「ありがとう癸成」

「どうして?蒼。どうして離れなきゃいけないんだ」

「・・・大好きだから離れるの」

「意味がわからない」

「嫌いだから離れるんじゃないの」

「嫌いだったら離れるよ。好きだったら離れるはずがない」

「ごめんね」

「なんで謝るの」

「いろいろ」

「色々?」

「癸成の人生めちゃくちゃにして、人殺しさせて、こんなつらい目にあわせて」

「だから一緒にいたい」

「無理」

「蒼」

「癸成」

「好きだよ」

「私も」

「蒼、好きなんだ」

「私も。・・・離れててもずっと好き」

「蒼・・・」

「ずっとずっと好き」

窓が閉められた。



遠くなっていく車を、癸成はずっと見ていた。











世の中は引力と斥力で二分されなかった。

すべてを語ることはできなかった。

僕たちは惹かれあい、引力でもって永遠に一緒にいれるはずだった。

なのに引き離された。

一緒にいることを許されなかった。




今ならわかるんだ。


蒼。

君は今どこにいるんだろうか。

新しいところで幸せに、新しい人生を送っているだろうか。

蒼。

僕はいま反乱軍にいるよ。

新しい仲間と一緒に、新しい世の中を作るんだ。

蒼が教えてくれた勉強も、とても役に立ってる。




蒼。

君は僕のすべてだった。

君が僕にすべてを教えてくれた。

世の中の仕組みを教えてくれた。

理由のない「事」は存在するんだ。

僕が蒼を愛したのも引力じゃない。理由なんかない。
ただ、好きだったんだ。




蒼。

愛してる。

君の幸せを、僕はずっと祈ってる。
















END