冬茜



 天道家の本日の夕飯は、石狩鍋だ。台所には、昆布出汁と味噌の合わさった食欲を唆る香りが充満している。
 少し震える手で片手にミトンをはめると、あかねは、布越しにもほんのりと温かい土鍋の蓋を開けた。土鍋の中からは、まるで浦島太郎が玉手箱を開けた時のように、白い煙がもうっと立ちのぼってくる。
 煙にほんの少し目がしみて、数度瞬きをしたのち、もう片方の手で持ったおたまで、彼女は鍋の中でぐつぐつと煮え立つ煮汁をほんの少しだけすくった。ごくり、と喉が鳴る。
「……だ、大丈夫。ちゃんとかすみお姉ちゃんのレシピ通りに作ったし…匂いもまともだしっ」
 自分を納得させるように独りつぶやき、うんうんと頷くと、あかねは意を決しておたまを自分の口元に運んだ。口を窄めてふうっと煮汁を冷ますと、恐る恐るそれを啜ってみる。
 ──まともな味だった。むしろ、美味しい。前までのあの、舌に否応が無し絡みつくような殺人的な不味さはない。
 土鍋の蓋を閉めたあかねは、あまりの達成感に満面の笑みでガッツポーズを決めた。
「これなら、乱馬もきっと……!」
「──俺がなんだって?」
「ひっ!?」
 突如として後ろからにゅっと伸びてきた手に視界を遮られ、あかねはお化け屋敷で人魂でも見てしまったかのように盛大に縮み上がった。
 背後でぶわははは、と豪快な笑い声を上げているのは、たった今彼女が胸の裡で思っていた人物である。
 独り言を聞かれてたかと思うと、顔から火が出るやら穴に入りたいやらであかねはむかっ腹が立った。
 恨みと恥ずかしさとを込めて、背後にいる彼の足の甲を踵で思い切り踏んづける。
「痛ぇっ!」
「いきなり何すんのよっ。料理中は台所に来ないでって言ったでしょ!?」
「だからって足を踏むなよ足を!ったくこの凶暴女は…」
 ぷるぷると震える小さな背から発せられようとしている不穏なオーラの気配を察して、乱馬は慌てて口を噤んだ。
 怒髪が天を衝く前に先手を打つことにして、あかねの身体を、米俵かなにかのように肩に軽々と担ぎ上げる。
 そして、彼女が目を白黒させている間にもすたすたと歩きだして台所を出て、階段をのぼっていった。
「ちょっと、下ろしなさいよ!まだ料理の途中なのにっ」
「まーまー、いいもん見せてやっからよ」
 担がれたまま乱馬の背中をぽかぽかと恨みがましく殴るあかねを、首をひねって振り返り、彼は茶目っ気たっぷりにウィンクした。

 あかねの部屋のドアを開けて中に入ると、乱馬はあかねを窓際で下ろした。窓に背を向けた彼は、カーテンの合わせ目を後ろ手にとじて、得意気に笑っている。
「何?」
 訝しげに首をかしげたあかねに、まあ見てろよ、とやはり茶目っ気たっぷりの声で言うと、乱馬は振り返ってカーテンを一気に引いた。
 あかねは、窓の外にひろがる景観に、思わず息を呑んだ。
 冴え渡った澄んだ空気の中、葡萄酒色の冬茜の空が、住宅街を見下ろしている。
 ノロジカのような眼をして、感嘆のため息をこぼしたあかねの肩に、乱馬はぎこちない動作で手を回した。
 すかさず、肩に置いた手の甲がつねられて彼が涙目になると、あかねは振り返って「べーっ」と舌を突き出した。
「乱馬のばーか」
「なっ、なんだよ、かわいく……ねー…」
 顔と顔との距離がぐっと近づくと、彼の言葉は少しずつ尻すぼみになっていった。
 鬼灯(ほおずき)のように頬を染めて、乱馬は口元を手で押さえ、しきりに瞬きを繰り返している。
 葡萄酒色の景色を遠望しながら、あかねはその肩の片方に頭を乗せて、はにかむように笑んだ。
「……すごくきれい。ありがとう、乱馬」
 彼女がボソリとつぶやくと、その素直さに面食らった乱馬は顔から火を吹かんばかりになって、首振り人形のようにこくこくと頷いた。



end.
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2011.12 拍手御礼



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