ただ感謝



 雪が静かな村に降り頻る。所々水面に薄氷が張られた湖には、凍えて身を丸めたまま微動だにしない水鳥が漂っている。赤い番傘をさしたりんがぺこりと頭を下げなければ、目前の世界は永遠に氷結したままなのではないか、と錯覚を抱いてしまいそうだった。
「殺生丸様、今までありがとうございました」
 殺生丸は名も知らない凍鳥から視線を離す。りんのなだらかな肩の線から、伸びた黒髪がこぼれている。磨かれた玉のような肌に、寒さのせいかほんのりと桜色が点している。伏せられた長い睫毛は氷に覆われ、微かに震えていた。それは思いの外、庇護欲を掻き立てた。遠い日のようにその肩に伸ばしかけた手を、寸でのところで彼は収める。
 蛹が蝶になったとでも言うべきだろうか、と殺生丸は思う。あの日気紛れに命を救った薄汚れた子供が、僅か十年足らずでここまで長じるとは。人間はまるで、踏み躙られてもどうにか伸びていく雑草のようだった。
「感謝してもしつくせません。殺生丸様に出会えたことが、りんの人生で一番の幸せでした……」
 雪の上にはらはらと涙を零しながら、りんは言う。殺生丸は微かに眼差しを緩めて、彼女の頭にそっと手を乗せた。
「……礼を言われるほどのことではない」
 冴え渡った空間に響く凛とした声だった。耳に心地好いその響きに、りんの目頭はますます熱くなっていく。
「殺生丸様、あなたはりんに何も求めなかった…命を救っていただいて、旅にも連れていっていただいたのに、どうして……?りんは、邪魔じゃなかった?」
 震える声でなされた問い掛けに、殺生丸は、静かに首を振った。
「邪魔だと思ったことは一度もない。それに、お前から見返りなど求めていない。──だが、それでも恩に報いたいと言うのなら、」
 冷たい手が頬を包み込んだ。りんはその手の温もりを知っている。目を閉じて、その優しい感触に感じ入る。
「……生きろ」
 水にとけてすぐに消え去ってしまうような、短い言葉だった。けれどそれが、これから歩いていく人生での糧となる。
 りんは何度も頷いた。嗚咽をもらしながら頷いた。殺生丸が、力強い腕で彼女を寄せて抱擁する。
「ありがとう、さようなら……殺生丸様」
 殺生丸はひと度首を縦に振った。それから抱く腕に一層力を篭めたあと、りんから身を離した。それから白い空を見上げて、一言何かを呟いた。それは聞き逃してはいけない言葉だったように思えたが、りんは聞き返さなかった。
 ──否。人間としての道を歩むことを覚悟した彼女は、後ろ髪を引かれることを恐れて、聞き返すことができなかったのだった。




end.
back




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -