回想電車


 長いことその電車を待っていたが、あいにく切符の持ち合わせがない。けれどこの便を逃せば、二度とどこへも行けなくなるような気がする。どうしたものかと考えあぐねていると、不意に背後から一本の細い腕が伸びてきた。
「二人分、お願いします」
 幼い声に振り返れば、彼の目先で少女が笑っている。彼の他には無人であったはずが、いつの間に後ろに並んでいたのだろう。驚きを隠せぬままちらと横目を向けると、車掌は少女が差し出した切符の枚数を検めている。それは七枚綴りのものだった。少女は彼の肩越しに身を乗り出した。
「わたしは次の駅までで、この人は終点まで行きます。ちゃんと足りますよね?」
 車掌はやはり無言のまま切符を切り、運転室へと戻っていった。「乗ろう」と少女は乗降口でたたずむ彼の背を後ろから押すようにした。車内には彼らの他には一人の乗客の姿も見られなかった。少女にうながされて手近な席に腰かけながら、彼はふと胸に浮かんだ疑問を問いかけてみる。
「終点とは、どの駅だろう?」
「着いたらわかるよ」
「そう。私はそこまで行けばいいんだね」
「うん」
「千尋は、次の駅で降りるの?」
「そうしなくちゃいけないから」
 電車はゆっくりと動き出した。床の上に吊革の輪の影がいくつも連なって揺れている。車窓から差し込む光の筋が、白い箱のようになって正面に座る千尋の姿をおさめていた。子供らしい笑顔にそっと微笑み返しながら、彼はまだ言うべき言葉を伝えていないことに思い至った。
「切符をありがとう。おかげでこの電車に乗ることができたよ」
「いいの。わたしもハクと一緒に乗りたかったから。それに、この切符──」 
 千尋は上半身をひねり、窓の外の景色を眺めた。言いかけの言葉の続きよりも、その視線の先を彼は追いかけた。晴れた空の下に青い水が遠くひろがっている。千尋とともに海の上を飛んだ日のことが懐かしく思い起こされた。ハク、という呼び名もまた久しく耳にしないものだった。
「千尋」
 日に透ける髪がやわらかく揺れて、再び目と目は出会った。「隣に座っていい?」そう聞くと千尋は屈託のない笑顔でうなずいた。彼も瞳を輝かせて立ち上がったが、瞬間足元の床がぐらついた。ゆるやかに減速していた電車が次の駅で停まったのだった。
「わたし、ここで降りなくちゃ」
 そう言って、向かいの座席から腰を上げた千尋は彼に握手を求めてきた。その笑顔には一点の曇りもなかった。できることならもう少しだけ話をしていたかった。名残惜しさをひた隠しつつ彼は自らの手を差し出した。乗降口のドアが開くと、千尋は手を振って二人きりの電車を降りていった。一人残された彼はせめて窓越しにその背中を見送ろうとしたが、プラットホームは白い光に包まれるばかりで誰の姿も見出すことはできなかった。
 いつの間にか車掌が乗降口に立っていた。新たな客が乗ってくるらしい。千尋を失った彼は気にも留めずに、空になった正面の席をぼんやりと見つめていた。
「次の駅までお願いします」
 若い女性の澄んだ声が聞こえた。続いて車掌が切符を切る機械音がした。コツ、と靴の踵が床を打つ。蒸気の吹き出すような音をたててドアが閉まる。電車は再び道標なき水上を走り出した。
「ハク」
 ややあって、ためらいがちに声が彼を呼んだ。その主を斜に見上げて彼は思わず目を見開いた。手すりから顔を覗かせているその人は、確かに今しがた電車を降りていったはずのあの少女だった。──正確に言えば、その面影を十分に残した大人の女性だった。
「あの席に座ってもいい?」
 彼が小さくうなずくと、その人は「ありがとう」と言って向かいの席に座った。十歳の子供はもうどこにもいなかった。白いワンピースからのぞく腕と脚が、車窓越しの光を浴びてつややかに照り映えていた。麦わら帽子の陰から真っ直ぐに彼をとらえる瞳だけが、あの少女と変わらぬあどけなさを宿していた。彼はまぶしく目を細めて相手を見つめ返した。
「良かった。千尋、元気に過ごしているんだね」
「うん。ハクが、トンネルの向こうに帰してくれたから」
 千尋は帽子をとって膝の上に乗せた。日に透ける髪は子供の頃よりもいっそうやわらかく見えた。その髪に触れてみたいと願う者が、彼女の周囲にはどれほど存在することだろう。
 トンネルを抜けた後の身の上話を、千尋は彼に語り聞かせた。あるべき場所で伸びやかに成長していく少女の姿を彼は脳裏に思い描いた。彼女の話の中には、少女の頃からの想い人だという若者が度々登場した。若者も千尋を深く愛し、恋人達は将来を誓い合った。
「わたし、とても幸せよ。それも全部ハクのおかげ」
 電車が次の駅で停まると、千尋はまたも握手を求めてきた。彼は二度目の握手にこころよく応じた。握り交わす千尋の手は最初よりも大きく感じられた。そのことを彼は内心で少し寂しく思った。
「ハク、またね」
 輝かしい笑顔を置き土産に、千尋はまた去っていく。
 あの夏に彼が離した手を、今は別の誰かが握り締めて離さないのだろう。彼は千尋の恋人である見ず知らずの若者の顔を思い浮かべてみた。手を取り合い日の下を歩く若き恋人達を想像した。想い人を見上げる千尋の頬は薄く染まっていた。愛を囁く声さえも耳元に聞こえてくるかのようだった。空の座席には強過ぎる真昼時の日差しが照りつけていた。
「一駅分です」
 乗降口から新たな声が聞こえた時、最早彼に驚きはなかった。やや緩慢な動作で正面に腰かけたその人は、幸福を一身に集めたような笑顔を向けてきた。
「身体に障りはない?」
 彼は労りをこめて問いかける。身重の腹を撫でながら、頬の色つやをいっそう良くした千尋がゆっくりと頷いた。その隣に彼は顔のない若者の幻を見た。首を傾けた千尋がその肩に頭を預けるかたちになる。甲斐甲斐しく寄り添うさまは、まるで羽を擦り合わせるつがいの鳥を見るようだった。恋人達の愛が、千尋の中にまだ見ぬ雛鳥を育んでいるのだった。
「ハク、ここにきて」
 千尋が隣の席に手を置いて笑いかけてくる。若者の幻は日影に光が差し込むように薄れていった。嬉しいような惜やまれるような心持ちで、彼は首を横へ振る。
「それは、私の座るべき席ではないから」
「どうして?」
「いや。千尋が幸せなら、私はそれで十分だよ」
 千尋は一転、寂しそうな顔をしてうつむいた。その表情を自らの手で引き出してしまったことが彼には居たたまれなかった。行き場のない心をかかえつつ、頭の後ろの車窓を振り返る。この窓を突き破り、はるかな水の先に飛び去ってしまいたかった。
「さっきは、隣に座るって言ってくれたのに」
「……」
「ハクはもうわたしのことなんて、嫌い?」
 はっと向き直った時、ふたたび電車が停まるのがわかった。千尋は唇をかんで立ち上がり、今度は握手をすることなく電車を降りていこうとする。
「千尋、待って」
 彼は手を伸ばすが、彼女は水のようにその手をすり抜けて行った。白い光のこぼれる乗降口を彼は切なる瞳で見つめていた。やがてその光の中から新たな人影が現れた。ゼンマイ仕掛けの人形のように、車掌は切符を切る動作をくりかえす。
 向かいの席に腰かけた千尋は、彼の心を包み込むようにやわらかな瞳で笑いかけてきた。電車が動き出すと、今度は彼が自ら手を伸ばした。千尋がどれほど成長しようと、その隣に誰が寄り添っていようと、決して嫌いになどなるはずがないと伝えたかった。千尋は優しくその手を握り返してきた。
「隣に座ってもいい?」
 再び問いかければ、すっかり大人びた、しかし少女の頃の面影をそこはかとなく感じさせる偽りのない笑顔で、「おいで」と千尋は彼の手を引く。彼女の腹は見違えるほど薄くなっていた。雛鳥は無事に孵ったらしい。その近況を尋ねてみれば、満ち足りた母の表情で彼女は語りだす。
「大きくなったよ。ちょうど、今のハクくらいの身長かな」
「きっと、千尋に似ていい子だろうね」
「わたしにはあんまり似てないかも。でも、とても優しい子だよ」
 ふと子供の笑い声が聞こえたような気がした。彼はつい先程まで自分が座っていた正面の席を見やる。帽子をかぶった子供の幻がそこに腰かけていた。窓枠に片手をのせて、窓の外を見つめている。その横顔は帽子の陰に隠れているが、満面の笑みに輝いているであろうことはたやすく想像できた。
「おいで」
 思わず声をかけてしまってから、ハクはそうした自分に戸惑った。幻影をあたかも本物の子供であるかのように錯覚していた。正面の窓には彼自身の顔がうっすらと映し出されている。かたわらの千尋が静かに笑っていた。
 電車がゆるやかに減速をはじめる。停車の気配を感じた彼は、あと何駅行けばよいのかを振り返った。
「六番目の駅が終点だよ」
 彼の思考を読んだように、千尋が念を押した。「あと三駅だね」
「千尋はまた、次の駅で降りるんだね?」
「うん。そしてまた、次の駅で乗ってくるよ」
 握手の代わりに、千尋は彼をそっと抱き締めた。彼女の肩越しに昼下がりの太陽がゆっくりと傾いていくのが見える。そのぬくもりに包まれて、彼は心地よいまどろみが訪れるのを感じた。
「──眠ってはいけないね。次の駅でも、また千尋に会えるのだから」
「ううん。眠いなら、眠ってもいいんだよ。わたしはずっとハクの隣にいるから」
 彼の頬を優しくひと撫でしてから、千尋は席を立った。彼は薄く目を開けて、乗降口に消えていく背中を見送っていた。──次の千尋にも会いたい。心では強くそう願いながらも、あらがいがたい眠気に目蓋を開いていることさえ億劫になっていた。
 揺りかごの眠りはつかの間のようにも、永遠のようにも感じられた。「ハク」と隣で彼を呼ぶ静かな声がした。老いた千尋が目じりに幾重もの皺を刻んで彼を見つめていた。窓の外はとっぷりと夜の闇に暮れている。黄色みがかった電燈の明かりが黒い窓にちらちらと反射していた。
「──私は、次の駅を寝過ごしてしまったんだね?」
「ぐっすり眠っているから、起こさなかったの」
 千尋は微笑んだ。向かいの窓に映る祖母と孫のような姿をぼんやりと見つめながら、彼は問いかける。
「今、何番目の駅に向かっているんだろう?」
「次で終点だよ」
「終点……。その終点には、何がある? ──私はなぜ、千尋とこの電車に乗っているんだろう」
「まだ、思い出せない?」
 謎かけのような千尋の言葉だった。頭を抱え、彼はちらとその顔を見上げる。
「私が、何かを忘れていると言いたいの?」
「ううん。一度あったことは、忘れないよ。思い出せないだけで」
 千尋はカーディガンのポケットから小皺のついた何枚かの紙きれを取り出してみせた。それらは手書きの電車の切符だった。最初の駅で、持ち合わせのない彼のために、千尋が七枚綴りの切符を出してくれたことを彼は懐かしく思い起こした。
「あの切符の他にも、まだ持っていたんだね」
 その一枚に指先が触れた瞬間、彼の脳裏に彼自身の声が響き渡った。


『これはいつか、私と千尋が乗る電車の切符だよ』
『──電車の切符?』
 かたわらには若き日の千尋の姿があった。彼の肩に手を触れ、興味深げに手元をのぞき込んでいる。そこにはやはり手書きの切符が何枚も散らばっていた。千尋はその一枚をつまんで目線の高さまで持っていく。
『本当だ。これ、あの世界の電車の切符にそっくり』
『私と千尋にしか使えない切符だよ』
『ふうん。じゃあ、この切符でどこまで行く?』
 彼は千尋の手を自分の口元に近づけ、そっと微笑んだ。
『好きなところへ行くことのできる切符、というのはどうだろう?』

 ある時、若き恋人達は手を取り合い、燦燦と照りつける夏の日の下を歩いていた。麦わら帽子の陰から彼を見上げる千尋の頬は薄く染まっていた。彼は立ち止まって彼女に顔を近づけていくが、帽子のひさしにはばまれて唇はその愛らしい頬まで届かなかった。顔を見合わせて二人はくすくすと笑った。木陰で永遠に枯れない愛を囁き、指を交わして将来を誓い合った。
 またある時、窓辺に腰かける身重の千尋のかたわらには彼の姿があった。千尋は彼の肩に頭を預けていた。二人の手は彼女の大きく膨らんだ腹に触れていた。二人は子供の名づけについて意見を交わしていた。どのような子が生まれてくるかについてとめどなく語り合った。彼は千尋に似た子に違いないと予言し、千尋はきっと彼に似ているはずだと言い切った。
 またある時、一人の子供がはしゃぎながらコテージの窓の外を眺めていた。蝉の鳴き声が開け放したドアから染み入ってきた。『おいで』と彼が呼ぶと、子供は満面の笑みで駆け寄ってきた。その頭からはらりと落ちた帽子を千尋が屈んでひろいあげた。
『バーベキューまでに帰ってきてね』
 彼女が声をかければ、子供は屈託のない笑顔で、
『お母さんも一緒に遊ぼうよ』
 とねだった。バーベキューの準備があるから、と千尋はなだめた。遊び終わったら手伝うよ、と子供は重ねて言った。彼も子供の手を握り締めて、
『一緒に行こう、千尋』
 愛する人に笑いかけた。彼女は子供の頭に落とした帽子をかぶせて、自分も童心に帰ったような明るい笑顔を彼に向けてきた。


「一緒に行くよ」
 記憶の千尋の声と、隣の千尋の声が重なった。
 夜を走る電車の中で、走馬灯のようにさまざまな記憶がハクの脳裏をかけめぐった。それらは彼の願望が作り上げた幻などではなかった。ハクは震える手で自らが彼女に贈った切符を握り締めた。皺の刻まれた千尋の手がそっとその拳に重ねられる。その手の甲にもう片方の手をのせて、ハクは静かに囁きかけた。
「千尋が切符を持っていた理由が、やっとわかったよ」
「うん」
「──千尋の想い人は、私だったんだね」
「言ったでしょ? 小さい頃からの大切な人だったって」 
「あの子供の父親は、私だったんだね」
「あなたに似て、優しい子でしょう?」
 うん、とハクはうなずいた。その瞳の中から一滴の光がころげ落ちた。
「千尋に似て、本当にいい子だった」
 二人は肩を寄せ、長くて短い思い出話に興じた。車窓には夜明けの空が映し出されていた。六番目の駅は夜を越えた先にあるのだとハクは予感した。朝焼けは、水のように澄んだ青空の中に溶け込んでいく。
 そして電車は最後の駅に到着した。車掌の姿はもう車内のどこにも見あたらなかった。乗降口のドアが開くと、プラットホームから白い光が差し込んできた。ハクは千尋とともに立ち上がり、彼女の老体を気遣いながらゆっくりとその電車を降りた。
 かすかなせせらぎと鳥のさえずりが聞こえた。満開の花の香りが甘くただよっていた。木漏れ日が地面にやわらかく揺れている。生暖かい風を頬に受けてハクは後ろを振り返った。彼に手を引かれた千尋があどけない笑顔を向けてくる。ハクもそっと笑い返した。
 二人は遠い夏の日のように、肩を並べて駆け出した。
 水の流れる音がしだいに近づいてくる。水面のきらめきが木々の間に見える。ゆるやかにうねりながら、果てしなく続いていく。それは懐かしい川のようでもあり、まったく新しい水の流れのようでもあった。二人は裸足でその水の中に入っていった。水遊びに興じる子供のように笑い合った。──そして岩にくだける細かい水飛沫を浴びながら、万感の思いをこめて互いを強く抱き締めた。
「ハク、ずっと一緒よ」
「うん。──どこまでも」
 抱き合ったままふと力を抜く。空高く水柱が上がる。こぼれ落ちる水滴が白い鱗のようにきらめいたのち、水の流れはしんと静まり返った。
 どこかで電車の走っていく音がした。




2020.11.07
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