猫ちぐら

 大正の朝にはちらほらと雪が降っていた。通り過ぎざまに震災後再建された商店の玄関戸ががらりと開いて「おはよう」と顔なじみのお内儀さんが声をかけてくる。「おはようございます」と菜花が返すと「今日も寒いんだわねえ、炭が幾つあっても足らないわ」と揉み手に息を吐きかけながら奥へ引っ込んでいった。朝鳥の鳴き渡る五行町の目抜き通りに白い足跡を点々ときざみながら、菜花は通いなれた診療所への道順をたどっていく。
「おはようございます、菜花さん」
 診療所の戸を叩くと、式神の乙弥が中から鍵を開けてくれた。
「早起きですね。摩緒さまはまだお休みですよ」
「そうなの? じゃあ、もう少し後で来た方が良かったかな」
「いえ。ちょうどもうじきお起こしするところでしたから」
 中に入ってみれば、確かに小座敷の上にこんもりと丸まっているものがある。寝息も立てずに安らかな顔で眠っている診療所の主。綿をつめた毛布にすっぽりとくるまり、まるで猫ちぐらのようなその寝姿に菜花は思わず笑ってしまう。
「今朝起きた時の私と、おんなじ格好じゃない」
「摩緒さまは寒がりなお方ですから。部屋が暖まってからでないと、お目覚めになりません」
 乙弥は小さな手で燐寸を一本擦り、火鉢に火を入れた。そこに金網を置いて鉄瓶をかける。小上がりの縁に腰かけた菜花は、おもしろそうに摩緒の健やかな寝顔をのぞいていた。が、乙弥が茶を淹れようとしていることに気付くと、そうだ忘れてた、とバックパックの中に手を入れて中を探りはじめた。
「乙弥くん。はいこれ、差し入れ」
 探り当てた缶入りのホットココアを差し出す。式神は小首を傾げつつも「ありがとうございます」と言ってそれを両手で受け取った。
「温かいですね」
「こっちも寒いかなと思って、途中の自販機で買ってきたの」
「じはん……?」
「えっと、自動販売機。自動で飲み物を売る機械のことだよ」
「飲み物が入っているんですか、これは」
 さも珍し気にまじまじと見つめている。缶飲料を見たことがないらしい。菜花は傍に寄って手ずから開け方を教えてやった。二口、三口飲むと、乙弥はほっと息をついて斜に彼女を見上げ、
「甘くておいしいです」
「良かった」
 菜花はにっこりと笑い、帽子越しにその頭を撫でる。
「摩緒にはホットコーヒーにしたんだ。いつもミルクホールで飲んでるし」
「そうですか。では、そろそろお起こししましょうか」
 二人で靴を脱いで畳に上がった。まず乙弥が「摩緒さま、朝ですよ」と声をかけた。が、呼ばれた当人は剥製のようにぴくりとも動かない。今度は布団越しに揺り起こそうとするが、やはりその目蓋は頑なに閉じられたままである。次に菜花がいざり寄って「起きなよ、摩緒」とやや声を張り上げた。耳の近くで言われたのでさすがに夢の中まで少しは聞こえたのか、彼はうるさそうに眉をひそめて寝返りを打った。一計を案じた二人は布団を奪ってしまえば肌寒くて起きるのでは、と試みたものの、彼がしっかりとくるまっているのでそう簡単にはいかない。
「ああ、もうっ。──起きろ、摩緒!」
 業を煮やした菜花は、まだ熱々のホットコーヒーの缶をびたりとその頬にくっつけた。「あっ」と驚きの声を上げて、ようやく眠れる陰陽師は覚醒する。
「熱いじゃないか」
「だってホットコーヒーだもん」
「……菜花、いたのか?」
「いましたけど?」
 摩緒は布団の端と端を掻き合わせるようにして、ゆっくりと半身を起こす。硝子窓の向こうに白いものがちらついているのを、寝ぼけ眼をさらに薄くして憂鬱そうに眺める。
「今朝も雪か……」
「寒いのが嫌なら、炬燵でも置いてみたら?」
 菜花が憮然とした顔のまま勧めれば、彼は乙弥共々、何やらほろ苦いものを口に含んだような表情になる。
「昔、不始末で火事になりかけたことがあってね。それ以来炬燵は置かないことにしているんだよ」
「あ、そう……」
「それに、炬燵に入ったらなかなか出られなくなってしまうから」
「それは……うん。分かるかも」
 両手に息を吐きかけて、しみじみと菜花は頷く。これも猫鬼の血に呪われた者の宿命なのかもしれない。
 すると唐突に摩緒が首を傾けて、下から彼女の顔を覗き込むようにした。そうしてじっと見つめられると、菜花の心はにわかに落ち着かなくなる。乙弥に話しかけようとしてぎこちなく目を逸らすと、今度は彼が菜花の手をとった。寝起きの摩緒の手は大きくて冷たかった。菜花は全身の毛を逆立てた猫のようになって、握りしめられたその手をさっと彼の手中から引いた。
「顔色は悪いし、手も冷えている」
 摩緒が気遣わしげにささやいた。
「雪が降って寒かっただろうに。冬の朝歩きはよしなさい、菜花」
「──別に、平気だよっ。これくらい」
「おまえを心配しているんだ。体を大事にしなくてはいけないよ」
 それが医者としての所見に基づく事務的な助言だとしても、菜花の耳には思いやりに満ちあふれた言葉として聞こえ、胸に沁みるほど嬉しかった。かといってあからさまに喜ぶのも妙なので、思わず頬が緩みかけるのを懸命にこらえた。するとさらなる試練に見舞われた。
「しばらく温まっていなさい」
 と、摩緒は自分がくるまっていた布団を菜花の肩に覆いかけてくる。今度は菜花が猫ちぐらになる番だった。彼の温もりの残る寝具にぬくぬくと包まれ、菜花は顔が手団扇であおぎたくなるほど火照るのが感じられた。
「──あっ、熱い」
 缶コーヒーの開け方を乙弥に教えてもらった摩緒が、中身を一口飲むなり小さな声でそうこぼした。




2020.11.01


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