「今日は、あまり寄ってこないのだな」
 見返りもせずに相手は言葉を投げかけてくる。数間離れた樹上から様子をうかがっていたのだが、やはり気取られていた。
「どうした。この子を警戒しているのか?」
「……」
「心配せずとも、おまえに噛みついたりはしないさ」
 犬夜叉のおもては一層不快の色を濃く塗り重ねる。口車に乗せられては相手の思う壺だ。分かってはいるものの、誤解を受けたまま引き下がるのは心外なので、ひらりと地上に降り立った。
「誰がそんなチビを怖がるかよ。噛みつきなんざしやがったら、この爪で引き裂いてやらあ」
 巫女は土の上で気儘に遊ばせていたものを胸に抱きよせ、ようよう犬夜叉を振り返った。彼が近寄らずにいた原因はその見慣れぬ子犬だった。どうも普通の犬ではないように思われてならない。その子犬はすっかり飼いならされた様子で、主とともにじっと彼の顔を見上げている。
「……なんでい。文句あんのか」
「おまえが驚かすから」
 桔梗は微笑み、花のように凛と立ち上がった。そうして腕に抱いている子犬を渡してこようとするのに、犬夜叉はぎょっとする。
「なんなんだ」
「仲直りするといい」
「はあ?」
「おまえが悪者でないことは、この子も知っている。さあ、触ってごらん」
 渋々といった面持ちで、犬夜叉はその子犬を受け取った。抱き上げられた子犬は初めのうちこそ警戒して身を固くしていた。が、やがて彼の犬耳や爪からただよう獣の匂いに親しみを覚えたのか、クウンと鳴いて首元にすり寄ってくる。
「ほら。懐いている」
 桔梗が白い手を伸ばして子犬の頭を撫でた。優しい眼差しがそそがれていた。犬夜叉はおのれが子供となってあやされているような気分になり、にわかに面映ゆさを覚えた。そわそわと上を向いたり、横を向いたりしながらぼやく。
「……甘ったれたチビだな。迷子か?」
「親はいない。私が作り出した式神だ」
 早くもこの小動物にほだされつつある犬夜叉をさらなる驚きが見舞った。──式神。普通の犬ではない、という予感を覚えたことにようやく合点がいった。
「なんだ、元は紙きれなのか」
「ああ。手遊びに作った習作だ、長くはもつまい」
「でも、なんでこんな形になったんだ? 式神といったら、普通人の形にするものじゃねえのか?」
「意図してこうなったわけではない」
 静かに咎めるような、それでいていじらしく甘えるような三白眼が向けられる。
「──おまえのことを考えていたら、この姿になった」
 いつの間にか徐々に引き寄せられて、気付けば鼻先の触れそうな近さにその顔がある。犬夜叉の顎の下で子犬が鳴く。桔梗はふと美しい微笑みを残し、犬夜叉に背を向けた。二人の間に目には見えない垣が結われたようだった。安堵と失意を、彼は等しくその心に抱いていた。
「犬夜叉。おまえは、私の心に式を伏したな」
「式を……? どういう意味だ?」
「呪いをかける、ということだ」
 彼の目の前にはまだ花の微笑みの残像があったが、呪い、という不吉な響きによって否応なしに現実へ呼び戻された。
「おれがおまえを呪うだあ? ……けっ、そんな姑息な真似するかよ。被害妄想も大概にしやがれ」
「──そうか」
 静かな桔梗の声が、犬夜叉の心を掻き乱す。
「おまえのことでいつもこの胸がいっぱいになるから、てっきりそうなのかと」
 ──その肩をつかんで力づくで振り向かせてやろうとさえしかけたが、思いがけずいじらしい女心に触れて、犬夜叉はぐっと息を詰まらせた。
「それを言うなら、桔梗、おまえだって──」 
 初めは強敵の弱点を探りたかった。捕らぬ狸の皮算用、四六時中目を離さねばどこかしらに急所が見つかるはずだと確信していた。計画が狂いだしたのはいつのことだったか。弱点どころか、彼女の美しいところばかりが目に留まり、この胸に深々と刻まれることになろうとは思いもよらなかった。喉から手が出るほど欲した四魂の玉の輝きよりも、今やそのささやかな微笑みにこそ目が眩んでいる。恋という名の式神が放たれたのだとすれば、それはもう調伏のしようがないほど深く彼の心を巣食っていることだろう。
「──!」
 悩める少年の唇を、不意に子犬の舌先がぺろりと舐めた。彼は犬耳を震わせて赤面する。
「お、おいっ。何しやがる」
「ふふ」
「桔梗っ。おまえも何笑ってんだ」
 気色ばむ犬夜叉の腕から子犬がひらりと飛び降りた。──かと思う間にその姿は一枚の紙きれとなって、落葉のように土の上に舞い落ちた。




2020.11.01
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