止まった時計



「あ、あれっ?」
 目前の光景に千尋は素っ頓狂な声を上げた。まかないをとろうと廊下を歩いていると突然、目の前で齷齪と働いていた蛙男やら蛞蝓女やらが、石のように動かなくなったのだ。
 千尋は油屋を駆けた。膳を運んでいる女中や、湯釜を擦る小湯女、札を配る番台役も皆、一枚の写真におさめられたかのように微動だにしない。
 腕時計を見る。時計の針は動かない。どうやら油屋の時が止まってしまったようだった。千尋は青ざめながら、昇降機に飛び乗り、ボタンを連打しても動かないことを悟ると、階段を駆け足で登った。目指す先は、二天にある帳簿役の自室である。
 しかし、襖に手をかけようとして一瞬、千尋は躊躇った。ハクとは一週間前に些細なことで喧嘩をして以来、口をきいていなかった。千尋の方が一方的にハクを遠ざけていたのだった。
「あれだけ無視しておいて、いざとなったら頼るって、なんか都合いいなあ…わたし」
 罪悪感を覚えて千尋は嘆息した。そして、どのみちそろそろ和解したいと思っていたところなのだから、ちょうどいいじゃないか、と言い聞かせながら、襖を一気に引いた。
 簡素だが広々とした座敷の奥に、ハクが愛用している文机がある。ハクはそこに頬杖を付いていた。いつもなら、千尋が部屋にやってくるとまっ先に顔を上げて嬉しそうな表情を見せるのだが、今日は違った。ハクは頬杖をついて俯いたまま、居眠りしているような様子で、微動だにしない。
「ええー、もしかしてハクまで動けないの!?」
 泣きそうな声でそう言って、千尋はへなへなとへたり込んだ。ハクだけが頼みの綱だったのに、と半べそをかきながら四つん這いになって彼へと近づいていく。
「ちょっと、ハクぅ……起きてよー…」
 水干の裾を引くも、面を下げたハクはやはりびくともしない。窓辺に置かれた時計も、時が止まっていた。このまま元に戻らなかったらどうしよう、と思うと余計心細くなり、涙目になって千尋はハクに抱き着いた。その勢いで、ハクの頭がほんの少しだけ揺れ、結わえていない長い髪が畳を擦った。
「無視してごめんなさい、避けたりしてごめんなさい、もう二度としないからっ!一人にしないでー…」
 縋り付くように言ったが、やはりハクからは呼吸の音すらしない。千尋はやけくそになって、閉じられた薄い唇に顔を寄せた。眠り姫は口づけで目覚めるというじゃないか、駄目でもともとだ、と思いながら。──するとその瞬間、誰かがパチンと指を鳴らす音が響いた。
 千尋は目を丸めた。彼女の周囲で張り巡らされていた何かが「解けた」感覚がした。そして突然、身体を物凄い力で抱き締められた。かすめるように触れるだけでとどめようとしたはずの唇が深く重なり合う。息苦しさを訴えるように、千尋は目の前の胸を叩いた。
「なっ、なんなのよーっ!ハク、まさかこれ全部ハクの仕業なの……!?」
 千尋が言い終えるより前に、ハクは麗しい笑みを浮かべながら彼女の唇に人差し指を当て、黙らせた。
「千尋が悪いんだよ?私を避けたりするから。こうでもしなければ私の所へ戻ってきてくれないのではないかと思って」
 水干の袂から懐中時計を取り出して、千尋の目の前で振り子のように振りながら、ハクは得意げに言った。
「時を止めることなど、私にとっては造作もないことだ。だからもし、千尋がまた私を無視するようなことがあったなら、今度はそなたの時を止めて、この部屋に閉じ込めてしまうかもしれないよ…?」
 怪し気な微笑を浮かべながら躙り寄ってくるハクに、千尋は寒気を覚えて後ずさった。
「や、やだなあ、ハク…さっきも言ったでしょ?もう二度と無視したりしないから!」
「本当に?」
「本当だってば!」
 壁際に追い詰めると、両腕で彼女を囲って、ハクはその耳元で低く囁いた。
「……約束だよ?千尋」
 首振り人形のように、千尋は何度も何度も頷いた。それで漸く溜飲を下したらしいハクは、いつもの穏やかな微笑みを湛えて、愛玩するように彼女を抱き締めた。





end.

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