Awake or Asleep


 コップの水を片手に部屋のドアを開けながら、桜はまたひとつ猫のような欠伸をした。
 勉強のために夜更かししたことが安眠に響いてしまった。ベッドに入ってからまだ二時間も過ぎていないのに、いつになく眠りが浅く、結局喉の渇きを潤すために起き上がってしまった。頭の中の半分はまだ夢心地でいたけれど、後の半分はもう目が覚めてしまったような気さえする。
「困るなあ。明日は早起きなのに」
 枕に頬をつけてかたく目を閉じてみるも、あれこれと考えることばかりが浮かんでなかなか睡魔はやってこない。──覚えたての数学の公式、手作り弁当、英語の構文、水筒、世界史の年号と出来事、満開の桜などが次から次へと脳裏をよぎる。いちいち気を取られているとますます眠気が遠ざかっていきそうだ。
 そうだ羊を数えよう、そう思い立って桜はのどかな牧場の風景を頭の中に描いてみた。彼女の高校の廃クラブ棟によく似た掘っ建て小屋の中から、ピンク色の羊の群れがやってきて、一匹、また一匹と柵をとびこえていく。彼女は順調に数えていくが、ふと六番目の羊の顔が人面であることに気づいてはっとした。そのおかしな羊は桜の方を向いていた。目が合うとまるで悪事が見つかったような様子で、おろおろしながら頭を押さえる。
「──すまん!」
 人の顔をした羊がしゃべっている。桜は何度か頭を振った。牧場と羊はまたたく間に花吹雪のように散り失せる。そうして引き戻された暗がりの中、ベッド脇のカーテンの奥から、ばつの悪そうな顔がきわめて不自然な角度でのぞいていた。
「……六道くん?」
 半信半疑で呼びかければ、想像に描いたあの羊の通りに彼は頭を抱えている。
「すまんっ。屋根の上にいたんだが、その、どうしても真宮桜の顔が見たくなって……」
「……」
「いや、断じてやましいことをしようとしていたわけでは!」
 うろたえながら釈明するりんねを、桜は寝起きの半目のままぼんやりとながめていた。
「……とりあえず、六道くん、中に入ったら?」
「え」
「きつくない? その体勢」
「い、いやいや、この真夜中にお邪魔するわけにはいかんっ」
 押し問答の末に結局、彼はちんまりと桜の勉強机の椅子に座ることとなった。桜はふたたび台所に下りて両親を起こさないように一杯のホットミルクを用意した。そうして部屋に戻るなり、罪の意識のぬぐい切れないらしいりんねがまた「すまん!」と土下座してきた。彼女は笑って「ママたちが起きちゃうよ」と指先を唇に押し当てた。黄泉の羽織を着ているのだから普通の人間にその声が聞こえるはずもないのだが、すっかり真に受けた彼はおとなしくなった。
「──で、そもそもなんでうちの屋根の上にいたの? 六道くん」
 ベッドの足元に置いてあったイルカのぬいぐるみを抱き寄せて桜は尋ねる。すすめられたホットミルクを一口すすり、人心地のついたようにりんねはほっと息をいた。
「眠れなかったから……」
「死神のお仕事が忙しかったの? それとも、勉強で夜更かししたとか?」
「いや。その、」
「?」
「夜明けが、あまりにも待ち遠しくて──」
 さりげなくそらされた顔。もしかして、と思い当たるふしのある桜は、上半身ごと首を傾けてその顔をのぞき込んだ。
「明日の約束のこと?」
「……ああ」
 河原の桜がちょうど満開だから。
 人目につかないように早起きをして見に行こうと約束した。
 彼女は夜のうちに二人で食べる弁当をつめた。水筒の準備も忘れないようにしようと頭の中に書き留めた。明日を思うと眠れそうになくて、気をまぎらわせようと勉強机に向かった。それでつい夜更かしをしてしまった。
「そっか。お花見、そんなに楽しみにしてくれてたんだ」
「……もしや、おれひとりで舞い上がってしまったか?」
「まさか」
 胸くすぐられるような思いで桜はイルカのぬいぐるみを抱きしめた。眠れない夜を過ごすのは彼女だけではなかった。二人で同じだけ待ち遠しさを共有していることが嬉しかった。サイドランプの薄明かりの中で、ようやくまた彼女に向けられた赤い瞳がきらめいていた。
「──てるてる坊主に願うと、明日は晴れるというだろう。雨が降らないように、願掛けをしておいたんだ」
「明日は晴れ予報なのに?」
「念には念を押さねば」
 りんねが口の端をきゅっと上げてみせた。あまりお目にかかれない笑顔だ。胸に生じた衝動のはけ口を求めて、桜はイルカに頬をすり寄せる。それを見た彼がふと彼女の下の名を呼んだ。まだ指折り数えられるほどしか耳にしない呼び名だった。はにかんで桜が微笑み返すと、彼は椅子から腰を浮かせて両手を伸ばしてきた。彼の頬は薔薇色を刷いたようにいつになく血色が良かった。ぎこちなくも温かな抱擁を予感した桜はそっと目を閉じた。
「その……こんな時間に押しかけてすまなかった」
「──ううん。全然」
 羽織の袖のうちにつつまれて、夢心地に首を振る。
「まだ眠れないのなら、催眠術はどうかな?」
「……それ、効かなかったよね?」
「──やはり、駄目だろうか」
「大丈夫。──六道くん、"おやすみ"って言って?」
「……それでいいのか?」
「それがいいの」
「わかった。では……」
 ──おやすみ。
 彗星のように耳の中に流れ落ちてきた小さな声は、夢への道標。
 瞼の裏には一面きらめく星空が広がっている。その夜空の下には、羊のように丸い形をした満開の桜の木が立っている。明日の夢の中ではきっと、その空の色は、目も冴えるような朝焼けに塗り替えられていることだろう。

 


文字書きワードパレット 和の色
「21.東雲色」[指先・願う・お花見]
リプライ感謝……とりさん

2020.10.26
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