Jam tomorrow.


 息の詰まるような圧迫感を覚えていた。胸に重石を載せられたかと錯覚するほど寝苦しい。ひとしきりうんうん唸った後に、首筋に寝汗を浮かべた彼は薄っすらと目を開けた。寝起きの目にはまぶしい燃えるような赤が瞳の中に飛び込んできた。
「おきて、パパ」
 そこに幼児がどっかりと腰を据えていた。道理で重いわけだと寝起きの頭で彼はぼんやりと納得する。父親の反応の薄さにしびれをきらした子供は小さな手で容赦なく彼の顔をつねりだした。
「おきろ」
「いたた。りんね、パパはまだおねむなんだよ」
「やだ。イチゴ、イチゴ」
「……うん? イチゴ?」
 まだ頭の働きが鈍い彼はりんねのなすがままでしばらく思案した。そうしてりんねが、忘れていることを責め立てるように泣きそうな顔をしだした頃になってようやく、
「──ああ。イチゴ狩りに連れて行くって言ったことか?」
 幼い息子に他愛もない口約束をしたことを思い出した。
 何のことはない。あの世商店街の福引で、イチゴ狩りのペアチケットを引き当てたのだ。それをちらつかせて幼児に期待を持たせた。問題は、そのペアチケットがすでに彼の手元にはないということだった。その所有権は、幾ばくかの現金と引き換えに、とうにあの世の金券ショップに譲渡してしまっている。
「そんなにパパとのお出かけを楽しみにしていたのか。いじらしいやつ!」
 彼はさもわが子の情深さに感動したような素振りで小さな体をひしと胸に抱きしめるが、幼くとも妙に鋭いところのある息子はそれしきの茶番にはごまかされなかった。
「イチゴ。やくそく。ゆびきりげんまん」
「でも、外は雨だぞ。今日は農園も閉まってるんじゃないかなあ」
「じゃあ、あした」
「明日? ……うーん、そうだなあ。じゃ、晴れだったら連れて行ってあげよう」
 りんねの赤い瞳が宝石のようにきらめいた。約束の証として小さな手でゆびきりげんまんを求めてくる。はいはいと小指を差し出しながら、彼はその笑顔の下で自分の不誠実をほんの一瞬いましめた。なぜなら彼は知っていたからだった。明日もそのまた明日も、天気予報は雨続きなのだということを。


 今、彼の胸を押しつぶさんばかりに踏みつけているものは、少年の裸足だった。地獄の芋虫を見るような冷ややかな目つきでかつての幼児は彼を見下ろしてくる。
「勝手におれの部屋に入るな、と何度言えばわかるんだ?」
「薄情だなあ。親子じゃないか」
「どの口がそれを言うんだ。……さっさとどけ、座れないだろう!」
 ダンゴムシのように足蹴で畳の外に転がされ、彼は羽織の袖口を目の端に当てながらしくしくと嘆いた。
「しょうがないか。彼女ができちゃったんだから。パパよりもそっちが優先になるよな」
「なっ……」
 彼女という身も蓋もない呼称にりんねはわかりやすく赤面する。血より濃いものはないというけれど、その奥手ぶりは彼の息子らしからぬ性質だ。するとその背後から例の少女がひょっこりと顔をのぞかせて、
「おとうさん、ここで何してるんですか。また六道くんにお金の無心ですか?」
「違うんだよ。りんねにとても大事な話があってね、帰りを待っていたんだ」
「そうですか」
 彼の法螺を真に受けたのか、あるいは単に気を利かせたのか、少女はまだ頬を赤らめているりんねにそっと耳打ちした。
「せっかくおとうさんが来てるんだし、邪魔したら悪いから帰るよ」
「えっ!? いや、真宮桜が帰る必要は……」
「ううん、私ならまた明日も来れるし。差し入れ、おとうさんと六文ちゃんと三人で食べてね」
 桜はなおも引き留めようとするりんねに紙袋を手渡し、彼に向かって会釈をしてきた。親の仇を見るような息子の恨めしげな眼差しが、もう姿の見えない少女にいまだ手を振り続ける彼のさわやかな笑顔に向けられた。
「この疫病神め」
「パパを足蹴りにした罰だよ、りんね」
 りんねは舌打ちをしつつ、桜から受け取った紙袋は丁寧にコタツ机の上に置いた。
「用がないならさっさと帰れ。おまえがいると、ろくなことがない」
「ええ? 桜ちゃんがぼくにも食べてって言ってたじゃないか、それ」
 紙袋を指差せば、息子は魂まで抜け出しそうな深い溜息をついた。
「なにが悲しくて、おまえと二人きりで真宮桜の差し入れを食わねばならないんだ……」
 少女の母親は最近ジャム作りに凝っているという。紙袋の中にはジャムの瓶と、クラッカーやスコーン、パンなどが入っていた。
「愛されてるなあ、りんね。さすがパパの子だ」
 りんねは喜び半分、不満半分の面持ちで黙々とそれらを食べている。あの少女の真心を嬉しく思いながらも、今隣にいてその幸せを分かち合う相手が彼女ではないという事実に満足できないようだ。彼は指についたジャムを舐めとりながら、興味本位の追及をつづけた。
「六文はどこかにお使いにやったのか? 桜ちゃんとデートだから」
「……」
「おまえも色気づいてきたなあ。ついこの前まであんなに小さかったのに」
「……黙って物を食えんのか? おまえは」
 やかましそうに横眼で睨んでくる。くすくすと彼は笑った。
「結局、あの時はイチゴ狩りに連れて行ってやれなかったな」
「──何の話だ?」
「でも、今こうやって一緒にイチゴジャムを食べてるわけだし、まあいいか」
 息子の口の端についているジャムを彼は指先でぬぐってやる。やめろ、と鬱陶しいもののように手で払われた。その手の大きさに、彼はしみじみとかつてゆびきりげんまんした小さな手を懐かしんだ。
 いつまでも箱庭の中でぬくぬくと育っていくものとばかり思っていた。父親が外の世界に連れ出してくれるのを指をくわえて待っている、いじらしい子供なのだと。それがいつの間にか自力で箱庭を飛び出していた。誰に教えられるでもなく、外に咲く可憐な花を愛でることを覚えた。今のりんねには父親など不要だ。
「あの頃のりんねは、かわいかったなあ……」
「相変わらず口先だけだな」
 とげのある物言いに、おや、と彼は目を見開いた。食べかけのスコーンにのせた赤いジャムがどろりと紙皿に垂れるのを、りんねは眉根を寄せて見下ろしている。
「けものでも、わが子を守るために四六時中そばにいてやるものだろう。それをほったらかしにしておいて、さも愛情をかけたかのように過去を美化するのはやめろ」
 イチゴ狩りのことなど覚えてもいないような様子だった息子が、いつになく噛みついてくる。
 その顔を覗き込むようにして、彼はまた笑った。
「なんだ。寂しかったならそう言えばよかったのに」
「──言うか、くそおやじ」
 



文字書きワードパレット 和の色
「1.紅緋」[けもの・箱庭・血より濃いもの]
リプライ感謝……てんぷらさん


2020.10.23



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