From the sweetest wine,


 成人するまでは一滴たりとも酒を口にしないと、生真面目な彼女は心に固く決めていた。
 十九才の誕生日に小洒落たレストランに行ってみれば、秋山がワイングラスを傾ける目の前で、彼女はかたくなにアイスティーを供とした。それもミルクとガムシロップをそれぞれ二個も投入するのだった。食事時によくそんな甘い飲み物が喉を通るな、と正直な感想を伝えた。秋山さんのだってぶどうジュースと同じじゃないですか、と屈託のない笑顔が向けられた。
「ぶどうジュースか」
 まるでお子様の発言だな、と有り体に秋山は言った。正直者は自分の幼稚さを恥じたのか頬をさっと染めて、
「だって、味が分からないんですもの」
「そのうち分かるようになる」
「じゃあ……二十歳になったら、秋山さんと乾杯してみたいです」
 彼はグラスをもてあそぶ手を止め、ふと笑った。
「ぶどうジュースで?」
「その時には、さすがにぶどうジュースだなんて言いませんっ。──秋山さん、もしかしてからかってます?」
「はは」
 忘れないでくださいね、とデザートのバースデーケーキを食べ終えてから、口の端にクリームをつけた直が念を押してきた。初めてお酒を飲む時は絶対に秋山さんと一緒がいいんです、と。秋山は曖昧な返事をかえした。一年後の未来など所詮不確かなものでしかない。彼女の気が変わった時、負担になることのないようにしたつもりだった。──だがその配慮とは裏腹に、彼の脳裏には、透き通るグラスの縁越しにとりとめもない約束を交わした瞬間が、日を追うごとに一層鮮やかに色づいていくようだった。


 程なくして、彼女の住むアパートが火事で全焼した。
 幸いなことに直はホスピスの父親を見舞っていたため無事だった。怪我人はいたものの、死者が出ることはなかった。出火元は不審火とのことだった。資源回収のゴミに何者かが放火したらしいが、焼け跡を調査すると、ゴミとともに出所不明の札束が大量に燃えたらしいことがわずかに残った切れ端などから判明した。この調査結果により、メディアではあれこれと扇情的な報道がなされたものの、真犯人の究明には至らなかった。
 そのほとぼりも冷めやらぬうちに、直の父親の容体が悪化した。
 彼女によれば、父親は火事の報道にひどく動揺していたとのことだった。末期ガンの父親に衝撃を与えることのないよう直は決してその詳細を語らなかったが、新聞やテレビに触れれば否応なしに情報は目と耳に入ってくる。心労がたたったのでしょうと医者は見立てた。その口ぶりからしていよいよ親子に残された時間が尽きかけていることを直は予感した。一人娘だから心配かけちゃって、私がしっかりしなくちゃいけませんね、と秋山の前で彼女は空元気を出してみせた。
 雪の降る朝に静かな葬儀が営まれた。故人たっての願いで、その旅立ちを見送るのは直と秋山の二人きりだった。彼女には十九年分の思い出と、父親と暮らした家と、大学生活を続けるには事欠かない財産が残された。
 忌引きが明ければ彼女はまた大学に通い、数日に一度は秋山と会った。表向きは普段通りの神崎直だった。しかしその心には憂いがあった。秋山は注意深くその不安の種をさぐった。観念した直は、ポストに不審な手紙が入っていたことを打ち明けた。白い用紙に亡き父親の写真が印刷され、その顔には×印がつけてあるというものだった。封筒に差出人の名はなかった。
 引っ越しはしたくない、父親との思い出のつまった家を手放したくないという直の意思を尊重し、秋山は実家を引き払うことを再三勧めることはしなかった。が、休日には必ず防犯のために彼女の家を訪ねるようにした。第三者の存在を察知してか、それ以上怪しい郵便物が届くことはなかった。それは彼女にとっての安息だったらしい。彼が部屋にいる時、直は子どものように深い眠りに落ちた。彼女の目が覚めるまで、秋山はいつも傍にいてやった。


「心配しないでください、秋山さん」
 そう言って明るく笑う直を、彼はこの一年の間に何度見てきただろう。
 今度の災難は大学での事故とのことだった。階段を踏み外してひねったという足首と腕には包帯が巻かれていた。骨折じゃないからすぐ治りますよ、本当にうっかりしてました、などと彼女が気丈に振舞えば振舞うほど、秋山の瞳は険しく細められた。
「誰かに背中を押されたんじゃないのか」
 直ははっと彼の目を見た。すぐに視線が逸らされたのを秋山は見逃さない。
「そんなわけ、ないじゃないですか」
「相変わらず嘘が下手だな。誰にやられた?」
「だから、わざと押されてなんかいませんって。私がドジだから──」
 言い訳がましい否定を押しとどめるように、秋山は二人の間の距離を縮めた。長身の彼に迫られた直がぐっと息を呑んだ。秋山は手を伸ばして彼女の顔に触れてみる。その頬には大判の絆創膏が貼られている。彼女は瞬きもせずに彼の動向を見守っていた。
「──"権力"、か」
 秋山の口から低くもれた言葉を、直ははじかれたように否定した。
「そんなはずないです」
「お前の周りで立て続けに不審なことが起こる。偶然だと思うか?」
「だったら……逆に、故意でこんなことをする人がいると思いますか?」
「ああ」
 言い切る彼を、じっと見上げる彼女の唇が震えていた。
「これは明らかな脅しだ。何かが、お前を狙っているとしか考えられない」
「……」
「お前もとっくに勘付いていたんじゃないか。警察に相談しないのも、そのせいだろう?」
 うなだれたのが肯定の意思表示だった。くぐもった声で、直はつぶやく。
「でも、どうして? ライアーゲームは、もう終わったのに……」
 秋山はしばらく無言のままその後頭部を見つめていたが、やがて彼女の肩に手を乗せて小さく息をついた。
「誕生日にする話じゃなかったな」
「……あ」
「それも二十歳の誕生日に」
 捻挫した彼女のために椅子を引いてやる。ありがとうございます、と先程のやりとりをもう忘れたような声が返ってきた。
「覚えていてくれたんですね、誕生日」
「約束しただろ。ちょうど一年前に」
「もしかして……?」
「そう。ぶどうジュースだ」
 ケーキの箱とワインボトルをテーブルの上に置く。ぶどうジュースという言葉から、一年前が思い起こされたらしい直は、眉を下げて笑った。
「棚にお父さんのグラスがしまってあったと思います。秋山さん、探してもらえますか?」
 遺品のペアグラスに、秋山は手ずからワインを注いだ。直はグラス越しに眠いような眼をしてその様子をながめている。そうしているとワインよりもずっとケーキの方が似合うような気がした。思い立って箱の中からケーキを取り出す。秋山の傍で、一年前の彼の所作を真似るように彼女はグラスをもてあそびながら、
「これ、ペアだったって知りませんでした。いつもお父さんが一人で使っていたから」
 そう、と秋山は言った。ええ、そうです、と直が微笑む。
「もしかしたら、お母さんもこのグラスでお酒を飲んだのかもしれません。お父さんと二人で、今の秋山さんと私みたいに」
「そうかもしれないな」
 彼女の空想に付き合いながら、彼は自分のグラスをかかげた。
「いつかお前とこうしてワインを飲むために、ペアでとっておいたんだろう。きっと」
 直も目先のグラスをようやく手にし、
「秋山さんは優しいですね」
「事実に限りなく近い想像を言っただけだ」
「優しいから、そんな温かい想像ができるんです。──私、今ここに秋山さんがいてくれてよかった」
 グラスの端と端とが甲高い音を立ててかち合った。
 互いの心の琴線もまた、確かに触れ合ったことが、透明の縁越しに交わした視線から感じられた。
 直ははにかんでグラスを口元に運ぶ。
 秋山は頬杖をついて、彼女の白い喉が動くのを見つめている。
「初めてのワインの感想は?」
「……なんだか、想像よりも甘酸っぱいです」
「甘酸っぱい、か」
 ふと笑みがこぼれた。一年前の彼もあのレストランのワインに同じ感想を抱いたことを思い出したのだった。彼女のアイスティーの味を想像したせいかもしれなかった。
「大して高くもないワインだからな」
「いえ、おいしいです。これが大人の味なんですね」
 たった一口で、すでに直の頬はうっすらと上気していた。 
「秋山さんと同じものを飲めて、嬉しいです」
 そう、と彼は返した。
 程なくして彼女がテーブルに突き伏した。どうやらあまり酒に強い体質ではないようだ。寝冷えしないようブランケットをかけてやりながら、秋山はふと彼女の唇の端にケーキのクリームがついていることに気付いた。あどけない寝顔が一年前の笑顔と重なった。
「──神崎直」
 身をかがめ、親指の腹でそっとクリームをぬぐってやる。
「俺はね。他に失うものなんかないんだ」
 残る四本の指先で、彼女の顔の絆創膏にかかるほつれ髪をこめかみへ流してやった。絆創膏の上から、彼はその頬に、ゆっくりと唇を寄せる。
「だからお前を守るためなら、どこまでも戦う」
 ──どんな相手とでも、と心の中で付け加えた。
 不審事は、秋山の身の周りにも起きていた。
 駅の階段で背後に何者かが忍び寄ってきたこともあった。ポストに怪文書が投げ込まれていたこともあった。直の家からの帰り道、何者かが彼を見張っていたこともあった。彼はしばらく不審な人物を観察したのち、変装して逆にその尾行者の後を尾けた。仲間を装い、神崎直が狙われている理由についてのいくつかの情報を引き出した。その尾行者はある日忽然と消えた。秋山の正体に勘付いて姿を隠したか、あるいは本当の仲間に失態が知れて、文字通り消されたか。その男がすでにこの世に存在しないとしても、彼の知ったことではない。誰にせよ、彼女に傷を負わせる相手を決して許しはしない。
「権力、か」
 それがこの寝顔を奪おうというのなら、すべてをかけて抵抗し続けてみせる。


 

10周年お礼リクエスト みや様「病み秋山が直を大好きすぎるお話」

20.10.19

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