うどん屋夜話

 


「もう店仕舞いかね?」
 白い息を吐きながら、酔客がひょっこりと屋台をさし覗いてきた。少年は一度は消した火をふたたび点けねばならなくなった。鉄鍋の中で飴色の出汁がふつふつと煮えてくるのをじっと見ていると、はてうどん屋さんあんたとどこかで会ったことがあるかね、とその客が首を傾げた。言われてはじめて彼はその隻眼で客を見定めるが、記憶の糸をいくらたぐってもその顔に覚えはなかった。客は若い時分に見世物小屋で火を使う少年を見たと言った。彼とその少年は風貌がよく似ているような気がしたが、あれはまだ明治も中頃のことだから単なる思い違いだろうと、熱々のうどんを美味うまそうにすすりながらぼやいた。
 最後の客を帰してから、少年はおかしくなってひとり笑った。あの客の脳裏には、火使いとうどん屋とは別々の人間として記憶されている。二人は一人なのだと、真実を語り聞かせたところで到底信じられるはずもない。
 帝都の方角、明治の世から変わらぬ浅草寺の鐘が厳かに深夜零時を告げていた。



2020.10.17
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