タナトスタナトス。ギリシア神話の死神。鉄の心臓と青銅の心を持つ非情の神。 「──だって。同じ死神でも六道くんとは全然違うね」 ギリシア神話の本から顔を上げて、桜は微笑んだ。 クラブ棟の一室で炬燵を囲むのは、彼女とりんね、そして翼のお決まりの三人組だった。桜の零した言葉によって、彼女が持ってきた蜜柑の皮を几帳面に剥いていたりんねは手を止め、暖の無い部屋の耐え難い寒さに凍えていた翼は心無しか眉根を寄せる。 二人の少年の視線を受けながら、桜は更に言葉を接いだ。 「私、六道くんに会う前は、死神って言えば怖いイメージしか浮かばなかったんだけど」 「……まあ、大抵の人間はそうだろうな」 りんねは蜜柑をひと切れ口に放り込みながら相槌を打った。死を畏怖する人間達が想像力を働かせて、死神という存在をどのように寓話や絵画で表現してきたのかというのは、死神である彼自身にとっても既知のことだった。 「でも六道くんは全然怖くないし。六道くんに会って初めて、死神って本当は優しいんだなって気付いたんだよねー」 穏やかな表情で桜は言った。彼女がりんねを「優しい死神」と称するのを聞くのは、翼にとっては二度目のことだった。桜は一度目に翼にそう告げたあの時と、同じ顔をしていた。ちくりと翼の胸のどこかが痛む。 「優しい死神……か」 翼は聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。傍らでは恋敵が、思いがけない言葉に少しばかり照れたような表情で、再び蜜柑のひと切れを口にしていた。 桜を見送ったあと、自分もそろそろ帰路につこうかと立ち上がった翼の耳を、不意に独白にも似た言葉が過ぎった。 「……と言っても、死神である以上、俺だって非情に徹することはあるがな」 翼は反射的にりんねを見下ろした。頬杖をついて、壁に立てられた大鎌を眺めるりんねの一切の感情を排除した表情は、先程の様子が嘘のように、不気味なほどにほの暗かった。 ──きっと自分も彼女も、この死神のまだほんの一部分しか知らない。優しさの裏に隠されているかもしれない非情。 タナトス、それは案外すぐ側にいるのかもしれないな、と翼は思った。 end. back |