空焚

 その辻堂の中には、えもいわれぬ香の匂いがただよっていた。
 観音開きにした扉をそのままに、見えない糸にたぐり寄せられるようにして、犬夜叉はその一寸先の暗がりへ足を踏み入れる。──それが境界の一線を越えた瞬間だったのか、枯れ葉を吹き散らしていた風の音がふつりと途絶えた。
 堂内は不思議と春の陽気を浴びたように生あたたかい。ほの白い煙のくゆる中に、小さな木彫りの観音像が一体すえられていた。供え物には古びて煤けた一巻の法華経、紅葉の枝を挿した壺、そしてつい今しがた誰かが置き去りにしたかのごとく煙を絶やさぬ香炉──。
 犬夜叉がそれをよく検めようと膝を折った時、ふと、背後から二本の細腕が伸びてきて、あっという間もなく彼の喉仏の前で交差した。
「……ああ、だめよ。振り向いちゃ」
 耳にくすぐったいような声が、犬夜叉の衝動をすんでのところで押し留める。犬夜叉は丸く見張った瞳をしだいにゆるめつつ、
「──どうした。おれに会いに来てくれたのか?」
「ふふ」
「なんだ。はぐらかすなよ」
 声の主は、犬夜叉の背におぶさってくるようにして後ろから彼を抱きしめた。時をさかのぼり、若き日の恋の戯れに今ふたたび興じているかのような胸の甘い疼きに、犬夜叉はあの頃の少年のはにかみを久しく思い起こしていた。
 瞬きの間に、その青春は過ぎ去っていった。
「ここにいたらだめよ。──いい? 私が合図したら、前に駆け出して」
「……出口は後ろだぞ。戻るんじゃねえのか?」
「後ろに一歩でも下がったら、もう戻れない。だから振り向いちゃいけないのよ」
 犬夜叉は押し黙る。その心には、たとえ後戻りできずとも、もう一度だけ彼女と手を握り交わしてみたいという切なる願いがきざしていた。すると彼の胸の内を見透かしたように、相手が焦れた声で警告してきた。
「命を無駄にしたら、あんたのこと許さない。もう絶対迎えに行ってあげないんだから」
 これにはぐうの音も出なかった。彼女は小鳥がさえずるように笑った。
「じゃあ、三つ数えたら。一、二──……」
 三、と数え終わるまでの時が、まるで永遠のように彼には思われた。──それでもその時が来ると、犬夜叉はぎりと歯ぎしりしつつも、固結びになった紐と紐とを無理やり引きほどくようにして駆け出した。
 踏み込んだ足で香炉を蹴倒した瞬間、中から灰とともに白煙が一気に噴き出してきた。その中に人影のようなものがおぼろげに浮かび上がった。犬夜叉は夢や幻であろうが構わないと、忘れえぬその名を口にした。
「かごめ」
「──犬夜叉」
 二つの声が優しく折り重なった時、犬夜叉は、伸ばした手が確かに握り返されるのを感じていた。
 煙が霧散すると、彼の目の前に突如として身の丈を超えるほど巨大な観音像が出現した。犬夜叉はかごめとの約束を思い返し、鋭い瞳でその巨体を見据えた。あたかも彼の行く手をはばむかのごとく屹立していたその木像は、その一睨みに競り負け、奇岩が真っ二つにひび割れたようにもろく崩れ落ちていった。
「おじいさま……!」
 ようやく外の光を見たかと思うと、どん、と何かが彼の鳩尾にぶつかってきた。子供の顔面である。犬夜叉は泣きじゃくる孫をなだめようと、袖の中に掻き抱くようにした。そうしてかがみざま、懐中から首掛けにしていた匂い袋がぽろとこぼれ出た。それは彼が肌身離さず持ち歩いているものだった。失くすことのないよう大事に懐にしまいかけた時、ふと、手の内にあるその匂い袋から人肌のような温もりがかすかに感じられた。あの堂内に漂っていた香の匂いもほのかにした。
 ──かごめ。
 犬夜叉は匂い袋を左の胸に押し当てる。──今もなお、この鼓動の絶えぬかぎり、この手は彼女と固く握り交わされているのだいう気がした。
 


20.09.27

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