赤不浄


 清らかであれ。
 その教えを一心に守ってきた。この身にも、この心にも、一点の穢れさえあってはならない。──妖玉を浄め、氏神を祀り、この村の人々を守る。そのためにこそ、桔梗という巫女が存在するのだから。
「──その清らかな手を、決して血で染めてはなりませぬぞ」
 桔梗は遥か遠い昔の言いつけを、つい今し方耳元に吹き込まれたかのごとく、鮮明に思い起こしている。その両手は、彼女が先刻葬り去った妖怪の、まだ生ぬるい血にべっとりとまみれていた。
 血は穢れなのだと教えられた。その不浄にみだりに触れることは、巫女の堕落の始まりなのだという。──今日、桔梗は生まれて初めてその戒律を破った。破らざるを得なかった。
「……」
 赤黒く染まった両手を凝視する。その血の跡がじわじわと死に顔を形作り、彼女に向かって怨嗟の声を放つかのようだった。桔梗は無言のままその手を夕日に透かしてみる。白い手首に、細長い蚯蚓が這うようにして赤いものが一筋つたい落ちていく。
「──……桔梗!」
 桔梗ははっと呼び声に目を見開いた。
 夕暮れ時の田地に咲き群れる曼珠沙華。──その朱塗りの畦道の先に、際立って赤々と目にしみるその姿が佇んでいる。剣呑とした眼を向けてくる半妖を、桔梗は負けじとひたに見つめ返した。
「妖怪の血の臭いがしやがるぜ。──らしくねえな、桔梗。おまえが返り血を浴びるなんてよ」
「不意を衝かれた。ただそれだけだ」
 ふ、と彼女は笑い、陽に翳していた手をそっと身体の脇に落とした。
 おまえのせいだ──と。心の中で彼女自身の声が、甘く囁いている。その声に酔いしれるように、桔梗はつと瞳を細めて彼をながめた。
「犬夜叉、おまえは何故ここにいる。……私を案じて、様子を見に来たのか?」
 半妖は、ぎこちなく後退りした。目があちこちへ泳いでいる。
「勘違いするなよ。おれはただ、てめえが持つ四魂の玉が心配なだけで──」
「ならば、その心配は無用だ。“私の命ある限り”」
 興味をなくしたように背を向けて、桔梗は家路を踏み出した。その後を、何やら悪態をつきながらも結局は従いてくる様子の半妖。彼女はつい、遊び相手を得た少女のような会心の微笑みをこぼしてから、ふたたび真顔に立ち戻る。
 ──私はいつから私ではなくなってしまったのか。あの程度の妖怪に手こずるとは。
 目の端にちらちらと赤がにじむ。追いついてきた犬夜叉が、側から彼女の横顔をじっと見つめているのだった。──その視線に応えてはいけない。頭では理解していたけれど、もし動き出した心を止める術があるとすれば、それはいかなる退魔術にも比肩せぬ、至難の技であっただろう。
「おい。本当は、どっか怪我でもしたんじゃねえのか。……なんか、元気がねえぞ?」
 桔梗は瞬きさえ惜しんでいる。彼という斜陽が、彼女の心の陰に赤々と差し込んでくるのを見届けていた。
 ──これが堕落の始まりだろうと構わない。私はもう私の心に嘘がつけない。目を逸らしたくない。その手を握り締めてみたい。巫女としての全てを忘れ──ただひとりの女として、その逞しい胸に身をまかせてみたい。



20.09.23



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -