三条の矢


 赤蜻蛉の飛び交う山道に、新たな轍が刻まれていく。
 荷車を曳く牛の足取りはやや重い。ゆるやかな上り坂は昼下がりの雨によってぬかるんでおり、米俵やら行李やら様々な荷の重量が、その体力を消耗していくのだった。
 そうとも知らず、数歩先で荷運びの先導をつとめる犬夜叉は、絶えず獲物を探す鷹のように眼光鋭く、周囲の様子をうかがっている。
「犬夜叉。おまえ、近頃はすっかり妖怪退治よりも“狩り”が板についてきたな」
「……けっ。何とでも言いやがれ」
 荷車の上から降ってきた感心ともひやかしともとれる言葉に、犬夜叉は居直りを決め込む。無駄な諍いに時を費やすよりも、獣の気配を探ることに集中したかった。
「あいつに滋養のあるものを食わせてえからな。今のうちに体力つけさせとかねえと。それが何か悪いかよ?」
「いえいえ。相変わらず仲のよろしいことで」
 頬杖をついたまま、弥勒が目を細めて笑う。彼の周りには、妖怪退治の成功報酬のみならず、道中の山林で犬夜叉が逐一寄り道をして狩ってきた、猪やら兎やら大小様々な獲物がひしめいていた。おかげでそれらと相席している弥勒は獣臭いことこのうえないが、身重の愛妻をひたむきに想う友の心をおもんぱかり、口には出さぬことにする。
「──ん?」
 ふと、鼻をひくつかせながら、犬夜叉が野萩の葉の生い茂る獣道を見据えた。弥勒もその視線の先を追う。かすかだが、木々の奥のさらに奥から、荒々しく地面を踏み鳴らす足音がする。
「熊か?」
「ああ、熊だな。よしっ、大物だ。──弥勒、おまえは先行ってろ!」
 言うが早いか、その姿は一陣の風のように、咲き初めの萩をはらはらと散らして獣道へと飛び込んでいった。
「今夜は熊鍋だな。待ってろよ、かごめ」
 意気揚々と獣の行方を追いはじめる犬夜叉だったが──ほどなくして、行く手にかすかながらもう一つの匂いを感知した。
 それは、彼が誰よりもよく知る匂いである。
 そして、彼の思い違いでなければ──その馴染み深い匂いの持ち主は、やがてこの山中で、たった一人獰猛な大熊と遭遇するはずであった。
 犬夜叉は頭の先から冷や水を浴びせられたように、血の気が引いていくのを感じた。獲物を狩る高揚感は胸の中から跡形もなく消え失せ、代わりに最悪の事態を避けねばならないという焦りが、その足を一層速める。
「かごめ、逃げろっ! 熊が来るぞ! 危ねえから、すぐに逃げろ!!」
 疾走しながら声を張り上げる犬夜叉の頭上で、木々の梢から飛び立つ鳥の羽ばたきが幾重にも連なった。
 彼の鼻先に届く獣じみた臭いは、ますます強まっていく。同時にかすかだったかごめの匂いもまた、次第に近づいてきているのがわかる。地面に足をつけている間さえもどかしくなり、犬夜叉は勢いをつけて木々の真上へ高々と跳躍した。
「かごめーっ!!」
 あらんかぎりの声でその名を呼んだ時、確かに地上から応える声を聞いた。彼はその場所を落下地点にさだめ、腰に帯びた鞘から素早く鉄砕牙を抜く。
「今助ける、そこから動くな!!」
 木々の葉の網をくぐり抜けて再び地上に降り立つや、犬夜叉は愛刀を大きく振りかぶり──
「あっ、やっぱり犬夜叉だわ!」
 ──そのままの姿勢で硬直した。
 栃の大木の木陰に憩うようにして、百日紅さるすべりの花が鮮やかに咲きこぼれている。匂い立つようなその花の下で、満面の笑みを浮かべながら、かごめが手を振っていた。
「さっきから、なんか、犬夜叉の声が聞こえる気がするなと思ってたのよね。本当に犬夜叉だったんだあ」
 暢気に笑う彼女の手には、今しがた使ったものと思しき弓が握られている。──犬夜叉ははっと振り返り、背後の木の幹に、射竦められて震える大熊の姿を見てとった。
「おまえ、この熊……襲われたんじゃねえのか!?」
「そうそう、いきなり出てきたからびっくりしたわ。まだ動くようなら破魔の矢を撃つしかないって思ったけど……ほら、大人しくなったから」
 あっけらかんとした口ぶりに、犬夜叉は全身から力が抜けるのを感じた。手のひらで顔を覆い、深々と安堵の溜息をつく。
「……──ったく。寿命が百年は縮まったぜ」
 そのただならぬ様子に、かごめはすぐさま置かれている状況を理解する。
「犬夜叉。心配してくれたの? ──ごめんね、私が一人で出歩いちゃったから」
「……おまえが無事なら、もういい」
 犬夜叉はかごめを抱き寄せ、もう片時も離しがたいというように、悩ましい吐息をこぼしている。
 その心に応えるため、かごめはじっと彼の瞳を覗き込んだ。
「私なら大丈夫よ。どんな敵にだって、絶対に負けないわ」
「でもなあ。おまえは腕も、腰も、こんなに細えし──。ガキを産むのは、命がけだっていうぞ?」
「……ねえ。だからあんた、最近私を太らせようとしてるわけ?」
 真面目な話の最中に、かごめはつい吹き出してしまう。しんみりとした心持ちで彼女の腰をさすっていた犬夜叉は、悪いかよ、と口を尖らせた。
「あの熊だって、おれが仕留めて、おまえに食わすつもりだったんだからな」
「ありがと。でも、熊はやめておこうかなあ」
 くすくすと笑いながら、かごめは背中の矢筒から、一本の矢を取り出した。
「見て。この一本だけでも、私は充分戦えるわ」
 でもね──そう言い置いて、さらに二本の矢を引き抜く。かごめはそれらを、犬夜叉の手にそっと握らせた。
「三本あれば、そう簡単に折れたりしない。そうでしょう? 犬夜叉がいて、私がいて、お腹の中にこの子がいる。私には三人分の力があるの。──だから私、絶対に負けたりしないわ。どんなに怖くても、どんなに苦しくても、絶対逃げたりしないって決めたの」
「かごめ……」
 犬夜叉は、三本の矢を強く握り締める。手の内に確かな重みを感じる。そこには、かごめの揺るぎない覚悟が込められていた。
「──情けねえな。力つけさすつもりが、逆に慰められちまってる」
「ううん、そんなことない」
 首を振りざま、百日紅の花がひとひら、小さな蝶のようにかごめの白い肩口に舞い降りた。──あ、と彼女はちょうど乳の上にとまったそれを見下ろした。
 その眼差しの柔らかさに、犬夜叉は、わが子を胸に抱く“母”の瞳をかいま見たように思った。
 
 

20.09.13
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