道虚日

「怪我をしているの?」
 井戸端の三人ははっと声の主をかえりみた。ニャア、とその腕の中で猫が鳴く。三人の驚きのまなざしを一身にあつめた紗那の瞳は、水干の袖をたくし上げてあらわになった摩緒の右腕をじっと見つめていた。その手の甲から肘のあたりにかけて、赤いすり傷のような火傷がじくじくと膿んでいた。
「紗那さま。ご心配には及びません」
 摩緒は焼け焦げのある袖をすばやくおろし、生々しい傷痕を彼女の目に触れさせぬようにした。そうして別の話題をさぐろうとするが、紗那の追及はとまらない。
「手当てをしなくては。痕が残ってしまうかもしれないわ」
「ほんの少し火に触れただけです。水をかければ治りますから」
 彼女はちらと摩緒の隣に縮こまっている百火を見やり、
「痩せ我慢はだめよ。──藻久不もくず、釣瓶の水をこちらへ」
 手を差し出した。おろおろしながら事の成り行きを見守っていた雑人ぞうにんは、主人の娘に命じられてあわただしく井戸に向き直る。木桶に汲んだ水を両手で受け取る紗那の肩に、居場所を奪われた愛猫はするりと定位置をうつした。
「百火。おまえも一緒に来なさい」
「……はい」
 叱られることを予期した童子の顔で、百火はしょんぼりとうなだれた。 
 道虚日どうこにちの今日は館を出る者もない。方々のむねから、呪文を暗唱する低い声や、刀剣を振りかざす太刀風などが聞こえてくる。
 館の術者たちにはつねに余念がない。相弟子を踏みつけ、兄弟子を凌駕し、師匠にわが力を誇示するためならば、決してその骨身を惜しむことはない。この御降家には、息詰まるような陰の気が終始重苦しくたちこめている。──そうしたさなかにあって、人の傷をわがもののように気にかける紗那の存在は、きわめて異質だった。泥の中に咲く清らかな蓮のように、ただ見ているだけで摩緒の心を慰めてくれる。
「百火の術が原因でしょう?」
 その瞳に、摩緒は心の奥底まで見透かされた気分になる。さらしで巻かれた右腕に、彼はそっと視線を落とした。
「……いいえ。私の不注意です」
「百火」
 師匠の娘に水を差し向けられた火の兄弟子は、もう隠し通すことはできぬと悟ったらしかった。板敷に諸手をつき、がばりと彼に向かって頭を下げてくる。
「悪かった、摩緒! おれが蠱物まじものを踏ませたりしなきゃ、おまえにそんな怪我なんかさせなかったんだ」
「百火さま、私こそ注意が足りなかったのです。どうかお気になさらず……」
 摩緒は仏のような顔をして兄弟子をなだめた。心満ち足りた今ならば、いかなる無体をも笑って許せるような気がした。
「それよりも、百火さまにお怪我がなくて何よりです」
「……摩緒。おまえ、結構いいやつだな」
 じんと胸に感じ入ったように、百火が目を輝かせた。その瞳は木桶の水に両手をひたしている紗那の横顔にも向けられた。
「紗那さまも、やっぱり優しいな」
「なぜ?」
「お師匠さまに見つかって、おれが叱られないように、ここで手当てしてくれたんだろ?」
「──さあ。どうかしら」
 紗那は静かに微笑みながら、袴の膝にすり寄ってくる灰丸を見下ろした。濡れたままの手で頭を撫でられると、猫はつめたそうに耳と尻尾と全身の毛をぴんと逆立てた。
「百火。元気なのはよいことだけど、あまりいたずらが過ぎてはだめよ。軽い火傷ではすまないこともあるのだから」
「紗那さまにそう言われちゃ、しょうがねえなあ。これからはちゃんと気を付けるよ」
 たしなめられているのに、嬉しそうに頬を赤らめながら百火は何度もうなずいた。
 庭木の花びらが風で几帳の奥にまではらはらと吹き散らされてくるのを、子鼠に見立てたものか、灰丸が小さな手でしきりに追いかけまわしている。
「おまえ、すばしっこいんだな。灰丸」
 馴れ合おうとして上機嫌に顔を近付けたのが運の尽き。バリバリ、と凄まじい音がしたのち、振り返る百火の仏頂面は真新しい爪痕だらけだった。
「灰丸、こちらへ」
 兄弟子から注意をそらそうとして摩緒がとっさに呼べば、猫はひらりと身をひるがえして素直にその両腕におさまった。それを見た百火はひりひりする顔をおさえながら、
「なんでおれ、こんなに嫌われてんだ!?」
「百火。顔を冷やしたほうがいいわ」
 くすくす笑いながら、紗那が濡らした手布てぬぐいを差し出した。介抱の番がめぐってきた百火は、傷心も吹き飛んで屈託のない笑顔をみせる。
 そのかたわらで、摩緒は懐っこい猫の背を優しく撫でていた。いつも飼い主がそうするように。猫はおとなしく彼に身を任せている。
「いい子だ」
「ええ、本当ね」
 独り言のつもりが、思わぬ返事をうけて摩緒はほのかに頬を赤らめる。
「ああ、百火。まだ動いてはだめよ──」
 春の日が、蝶のようにひらひらと彼女の白い袂にあそんでいる。
 この館に馴染んだ魔除けの香のにおいさえも、その人の袖に焚き染められれば、かすかな春風の香りとなって彼の鼻先にただようようだった。




2020.10.14
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