臥竜の木



 あれがあなたのお父さんだよ、と優しい声がささやいた。
 心の奥底に秘められた最も古い記憶を挙げるならば、それはまさにあの夜の光景だろう。彼は生まれたばかりの赤ん坊で、そこが地上で唯一の揺りかごであるかのように、母の温かなみ胸に抱かれていた。
 母子おやこの前には、一本の木がそびえていた。それはしなやかな枝を四方にうねらせる松の古木だった。冴えざえと澄んだ月明かりを受けて、その木肌の一部は不思議とほの白く輝いて見えた。
 母は彼を抱いたまま、その木陰に足を踏み入れた。蝕にむしばまれたように、頭上の月が折り重なる松葉の向こうに姿をかくした。深い木暗れの中、母は愛おしげにその木の幹に顔を寄せた。目を閉じて、ざらつく木肌にそっと頬ずりをしながら、これがあなたの子だよ、とささやきかけた。
 母の肩越しに、彼は清らかな光を帯びる松のひと枝を見上げていた。いにしえの月の天女のやどる若竹のように、それはまばゆい輝きを内から発していた。
 その光がゆらりと動いた。
 白い蛇のうごめきにも似ていた。
 まばたきの後には、母の背後を白い人影が占めていた。
 月の逆光がまぶしくて、顔は見えない。
 けれど、彼の名を呼ぶその静かな声は──それが確かに父と呼ぶ人のものなのだと納得させる不思議な力もって、彼の心に優しくしみ通るのだった。


「降りておいで」
 アスレチックの天辺から、少年は声の主を見下ろす。買い物袋を提げた母の千尋が、笑いながら手を振っていた。
「高いところまでのぼったね」
 秋の夕日は釣瓶を落としたように西のかなたへ沈んでいった。繋いだ手を振って歩く帰り道に街灯がぽつぽつと点った。近ごろは日が暮れると一気に冷え込んでくる。木枯らしに吹かれて彼がくしゃみをひとつした。千尋はしゃがんで、自分の首からはずしたマフラーを息子の顔まわりに巻いてやった。
「寒い?」
「ううん」
 ジジ、と頭上の街灯が点滅していた。少年はじっと目を凝らしてそれを見つめた。どこからか電力を補われたように、その街灯はひときわ明るく光り輝いた。
「のぼってみたいなあ」
「やっぱり、高いところが好きなんだね」
 千尋がほほえみ、彼の頭を撫でる。──アスレチックの天辺、街灯の先端、建物の屋上、飛行機の過ぎる空。少年がいつも、地上からかけ離れた高みに心惹かれてやまないその理由を、母は知っているようだった。
 少年は母の手をひいて、そっと耳打ちした。
「あの木に、のぼってみたい」
「あの木って、どの木?」
「お父さんの木」
 見つめ返す千尋の瞳の中に、小さな星がまたたく。
「覚えてるの? ずっと前のことなのに」
 少年はうなずく。優しい顔をした母がその小さな手を握りしめて、
「──あの木のところに、連れて行ってあげる」
 もと来た道を行き戻りはじめた。
 

 遠い日の夢のようにも思われた景色は、確かにこの地上に存在した。
 いつかのように、その木は月の光の差す中で、しらじらと照り輝いている。少年もまた、生まればかりの赤ん坊の清らかな瞳のまま、宝物を探し当てたかのようにその木を見上げている。千尋は、星の散る夜空に向かって伸びるひと枝を指差しながら、少年に頬を寄せた。
「あの木にのぼってごらん」
「いいの?」
「だって、そうしたいでしょう?」
「……うん」
 少年は頬を赤らめてうなずいた。木陰に駆け寄り、ざらつく幹をするするとよじのぼっていく。高みに至り、天に近づいていく高揚感が、その小さな胸を躍らせる。
「お母さん」
 木の下から千尋が手を振っている。彼は生き物のようにうねる枝のさらに先端へ尻をすすめていく。──夜風が少年の柔らかな頬を優しく撫でる。彼は目の前に生い茂る松葉が、にわかに水中の藻のように青くゆらめくのを見た。
「お父さん──」
 呼びかけてひしと抱きついた。その頬に触れたのはざらつく木皮ではなく、冷たくも温かい生き物の肌の感触だった。それは貝殻の中から探り当てたばかりの真珠のように、美しく光り輝いている。
 少年が父と呼んだものは、白い竜だった。
「ハク」
 頬を寄せあい、肌身を温めあう父子に向かって、千尋が微笑みながら両手を伸ばす。
「お願い、わたしも連れて行って」
 ──眠りから覚めた竜は、愛しい妻と子を背に乗せて、星のまたたく夜空を高々と飛翔した。
 少年は生まれて初めて、天にものぼる気持ちというものを知った。
 地上の景色が驚くほど小さく見える。雲の上をかすめ飛べば、白い月は頬ずりできそうなほど間近に浮かんでいる。砂金のように散らばる星を手で拾い集めることも、たやすいように思われた。
 元の場所に降り立ってもなお、少年の心は空の高みにあった。彼はうっとりと夜空の月を見上げながら、母とともに父である白竜の長い尾に巻かれていた。竜の瞳はみどり子の上気した横顔を愛おしげに見つめている。夫の青いたてがみにうずもれながら、千尋もまた飽くることなくわが子の顔を撫でている。
「どうする? ハク。あなたはとんでもないところに、この子を連れて行ってしまったみたい」
 竜はじゃれるように、千尋の頬や首すじに鼻面を擦りつけた。そのくすぐったさに千尋はくすくすと笑う。
「顔を見せてあげたら? いつも寝てる時にしか会えなかったんだし──」
 少年ははっと両親に目を向けた。母のかたわらには、すでに白い竜の姿はなく、代わりに竜と同じ優しい眼をした細面が静かな微笑を浮かべていた。
「……お父さん?」
「うん。──おいで、ワタル」
 脇のあいだに父の手が差し入れられ、子犬のように抱き寄せられた。ワタルは耳の先まで赤くなった。
「はずかしいよ、お父さん」
「なぜ? 毎晩こうして抱いているのに」
「ぼく、そんなの知らないもん……」
「そうだね。私が会いに行く時、ワタルはいつも眠っているからね」
 ハクは目を薄くしてうなずき、小さな頭を撫でた。その指の腹にふとかたいものを感じた。彼はそっと視線を落としてそれを確かめる。──指先でかき分けた髪の間にきらりと輝いたものは、どうやら生えかけの竜の角であるようだった。
 かたわらの千尋もその輝きを目の当たりにしていた。二人はわが子の頭越しにたがいを見交わした。そしてどちらからともなく頬をゆるめ、額をつき合わせるようにしてささやきかけた。
「──ワタル。空を飛ぶのは、好き?」
 父の腕にぎこちなく抱かれながら、少年は素直にうなずいた。
「アスレチックよりも?」
「うん」
「また飛んでみたい?」
「……うん」
「わかった。また何度でも、お父さんが空へ連れて行ってあげる」
 ワタルははじかれたように顔を上げた。喜びにほころぶその愛らしさを間近にして、ハクはその笑顔のためなら、この世のどんな望みも叶えてやりたいような気分になった。思わず小さな額に唇を押し当てると、幼い息子はまたたじろいだ。
「お母さんがいつもしているだろう?」
「──どうして知ってるの?」
「ワタルのことなら、何でも知っているよ」
 ワタルは目を丸くする。
「お父さんは、木なのに?」
「木から抜け出して、夜な夜なお母さんとワタルに会いに行くからね」
「毎日……?」
「一夜も欠かすことなく」
 ハクは千尋に目配せし、まるで少年のように無邪気な顔をして笑う。月の光をあつめて輝くその薄い瞳は、鏡を覗き見るようにワタルのそれとよく似ていた。
 


2020.10.11
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