取引



「よろしい。そなたの望むものを与えよう。──その見返りに、そなたは何をしてくれる?」
 年老いた比丘尼は手元の小瓶を小さく振りながら、妖怪に眼差しを向け微笑を浮かべた。その眼差しの先では、長身かつ貴公子然とした妖怪が、面を下げて佇んでいる。
 妖怪・殺生丸が静かに目蓋を下ろす。こめかみを押さえて深く息をつくその顔には深い翳りが落ちていた。意図せず溜息を零すほどに深く苦悩するその様子は、彼を知る者は誰一人見たことのないものだった。
「……お前が何を欲しているかは、分かっている」
 心の深奥から発せられたかのように低い声で殺生丸は言った。されどそこに恨みの色はない。比丘尼は感心したように片眉を上げる。
「ならば話は早い。娘を救うこの阿伽陀と、そなたの妖力、どちらを取る?」
 究極の取引だった。天秤にかけられたものの重みに、彼は苦悩の表情を浮かべる。
 殺生丸は邸で病臥しているりんを思った。人間の薬師にも、妖しの薬師にも治せぬ不治の病に苦しむ人間の娘。床に伏せるようになってから三月を数える。近頃では水も喉を通らず、蒼白い顔には死相が見え隠れしている。
 比丘尼の手元にある「阿伽陀」とは、万病に効く霊薬だ。いかなる病をもたちどころに治すその薬は、彼にとって、喉から手が出るほど欲するものだった。
 ──しかし厄介なことに、それを所有するこの比丘尼は、物の怪を強く疎んじていた。甚大な法力を有する比丘尼は、世に跋扈する百鬼の類を一掃することを信条として、秋津国を渡り歩いているという。
 殺生丸が目の前に現れた時、不吉なほどの妖力を秘めた彼を、比丘尼は法力でもって浄化しようとさえした。そして、殺生丸が己の持つ霊薬・阿伽陀を欲していると知ると、妖しの彼にとってこの上なく残酷な取引を持ち出した。
 比丘尼は笑窪を刻んで笑う。歳を重ねた面には揺るぎない余裕が見て取れた。大妖怪と対峙することに何ら恐怖を覚えてはいない、余裕綽々とした表情だった。
「物の怪にこの阿伽陀を譲ってやる義理はない。が、人間の娘を救うためとあらば話は別だ」
「……」
「そなたの、覚悟の程を示してもらおうか」
 殺生丸にとって、妖力を失うことは、己の死にも等しい。しかし、保身を図って阿伽陀を失えば、りんが死ぬ。いずれにせよ、どちらかが犠牲にならなければならない。
 彼は思惟に浸る。長きの生の中で、これほどに懊悩したことはなかった。いっそのこと、比丘尼を殺して奪ってしまえばよいとすら思った。その矢先、不穏な予兆を覚えたのか、比丘尼が薄笑いを浮かべながら釘を刺した。
「私を殺せば、法力と共に阿伽陀も消えるだろう」
「……」
「なぜ悩む?人間の娘など、百年にも満たぬうちに果てる。そなたのような物の怪が、そのような儚きもののために力を捨てるというのか?」
 挑発する口調だった。しかし、殺生丸の胸中に怒りは湧かない。比丘尼の言うことの正しさは妖怪である彼自身が良く分かっていた。
「……百年にも満たぬ、か」
 ──そんなことは、言われずとも知っていた。百年という時の儚さも。人の儚さも。だが、いざ面と向かってその事実を投げ付けられると、胸の裡には虚無感が広がった。
 なぜあの娘でなければいけないのか、と彼は思った。せめて懸想したのが、あの娘でなく己に見合った妖しの娘だったなら、懊悩することなど知らずにあれたというのに。
 殺生丸は面を上げた。先程までの苦悩が嘘のような、澄んだ表情だった。比丘尼が口元を手で覆いながら、笑みこだる。愚かな物の怪もいたものよ、と。
 小瓶の中で、霊薬が輝きを放ちながら揺れる。そして、一瞬の閃光が走り、彼は地に膝をついた。





end.
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