有喜世風呂



「リンと千。今日は“うき湯”番だ」
 台帳をめくりながら、兄役が申し付けてきた。
 今日も大湯番を仰せつかるものと思っていた千尋は、聞き慣れない風呂の名に疑問符を浮かべながら、番台の前で立ち尽くした。
 傍らのリンが長いブラシの柄を肩に立てかけて、
「へえ、今日は露天か」
 と満更でもなさそうにつぶやいている。
 実際に仕事に取り組んでみると、千尋も、露天の方が内風呂よりも掃除係としては良いように思われた。湯殿の清掃の時には、白い湯気が壁絵の一本松も見えなくなるほど濃く立ち籠める。そこに湯釜を懸命にこすったりなどしていると、むせ返りそうなほど暑苦しくてたまらないのだが、こうして外に出れば、外気が薬湯から立ち昇る蒸気をほどよく塀の外へと逃がしてくれる。
「見張りの目がないからいいな。ああ、極楽極楽」
 リンが悠々と背伸びをした。千尋も開放的な気分を味わいたくて、姉役の真似をしてみた。兄役や番台役といった口やかましい目付けがいないので、心なしか仕事もはかどるようだった。
 気が付けばもう飯時である。
「オレ、厨房行ってくるからな。釜爺んとこ寄るから、その間にあそこの落ち葉でも掃いててくれよ」
「うん、わかった。行ってらっしゃい、リンさん」
 言いつけ通り、千尋は露天風呂の片隅の坪庭に赤々と散り敷かれた、紅葉の落ち葉を箒で集めはじめた。こんもりと盛り上がる朽葉の山を見下ろしながら、焼き芋がしたいな、などと呑気なことを思った。そうして掃いているそばから、また一枚、二枚、頭の上からはらはらと落葉してくる。
「焼き芋ができそうだね」
 いきなりはたから声をかけられたので、千尋はあっと箒を取り落とした。
 少年の手がその柄をとり、千尋の手にそっと握らせた。
 優しげな微笑みを浮かべるその白いおもてに、薬湯の淡いゆらめきが照り映えるようだった。
「今、わたしもおんなじこと考えてた」
 明るく笑い返す千尋の鼻先を、赤い紅葉が蜻蛉のようにかすめていった。
「焼き芋のこと?」
「うん。考えてたら、おなかがすいてきちゃった」
「そう言えば、もう食事時だね。ごはんはこれから?」
「リンさんが取りに行ってくれてるの」
 そう、とハクは目を和らげて頷いた。
「なら、これは仕事の合間のおやつにするといい。今日も忙しくなりそうだからね」
「……?」
 これは、と言われても実物がないので、千尋は首を傾げるしかない。
 するとハクはその場にしゃがみ、千尋が掻き集めた落ち葉の山の中に、そっと両手を差し入れた。やがて中から取り出されたものを見て、千尋の両目はあっと驚きに見開かれた。
 彼は懐中から取り出した白い懐紙にそれを包むと、千尋の手を取った。
「熱いから気をつけて」
 千尋は懐炉かいろを抱くように、彼の贈り物を胸にかき寄せた。ほかほかと心臓の近くが温められ、この世の喜びを一心に集めたような心持ちがする。
 ──その瞬間、千尋のすきっ腹の中から、ころころと高らかな音を鳴らすものがあった。
「……ありがとう、ハク」
 紅葉よりもあざやかな笑顔で、はにかむ少女。──寄り添う少年は、自分もまた懐中に熱いものを秘めた眼差しで、ただ頷いてみせた。




2020.09.26
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