M先生へ

「菜花さん。少しの間、お留守番をお願いできますか?」
 うん、と彼女は首肯うなずいた。小さな式神がぺこりと会釈をして扉の向こうに消えていくと、ただでさえ静かな診療所の室内は、まるで深い海底に沈んだように全くの無音となってしまう。
 暇を持て余した菜花は、手持ち無沙汰に畳の上に置いてある新聞を取り上げた。が、現代でさえ新聞など読むことのない中学生の少女にとって、視覚情報の乏しい百年前の古新聞に向き合うことは、苦行にも等しい。最初の見出しで早くも彼女は辟易としていた──が、これを放棄したところで他に時間をつぶす手立てなどないことを自分に言い聞かせながら、国内外の政治、復興市街の小火ぼや騒ぎ、洋行帰りの学生の話題や広告の謳い文句などが書き連ねてあるのを、何とはなしに目で追っていく。
 その中には、読者からの投書欄がまぎれていた。思わず惰性で流し読みしかける菜花だったが、
 ──M先生へ
 という見出しで始まるその投書が、ふと彼女の目を引いた。

 お懐かしいM先生。先生は屹度きっともう私のことなどお忘れでせう。さる御一新の折に行き倒れとなつてゐたところを助けていただいた孤児だと云つても、先生は憶えては居られますまい。なぜなら先生はさうした童子わらべ達を、星の数ほども診てきたと仰つて居られましたから。
 M先生に出逢つたことは私の人生の転機となりました。あの日先生が路端で死にかけてゐた私を治療してくださらなかつたら、今私はかうして机に向ひ筆をとつてゐることはなかつた。先生が私の手を引いて送り届けてくださつた養家に私がもらわれることがなければ、今私の膝の上に甘えてゐるこの可愛い孫の笑顔に出逢ふこともなかつた。
 私にとつての先生は華佗かだにも劣らぬ名医です。されど先生はご自身の病は治せぬと仰つて居られた。どのやうな病気か尋ねてみましたがつひに先生はお答えにならなかつた。私は恩人の病を治して差し上げたいと思ひました。その一心で先生と同じ医師の道を志しました。
 またどこかで先生と行き逢ふことがあれば、今度は屹度私が先生の病を治して差し上げます。私はすつかり年をとりました。けれど先生は屹度今でもあの頃のまゝ、あの頃と変わらぬお優しさで患者を診て居られるのでせう。ですからもしいつかまた先生をお見かけしたならば、私には屹度一目で先生があの日の恩人なのだと判るはずなのです。
 私はさう確信して居ります。──

「随分熱心に読んでいるね」
 菜花ははっと顔を上げた。今まさに思い浮かべていた人物の顔が、脳内の映写室から映し出されたかのように、くっきりと目と鼻の先にあった。新聞に集中するあまり、彼の帰還に全く気がつかなかった。
 脱いだ外套を腕に折りたたみながら、彼は菜花の隣へ腰を下ろした。
「おまえが新聞を読んでいるのは珍しいね。何か気になる事件でもあったのか?」
「──ううん」
「そうか。これからも時々目を通しておくといい。勉強になるからね」
 立ち上がろうとする彼に、菜花は「摩緒」と呼びかけていた。
「どうした?」
「──……摩緒先生」
 言ってしまった後に、直ちに言葉を取り返して封じ込めてしまいたいというように、掌でパッと口を覆う彼女。虚をつかれた陰陽師は、両目を見開いて赤面している少女を見下ろした。
「おまえにそう呼ばれると、何やら……不思議な気分だ」




2020.09.24

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