大欲と無欲


 その街は、日没とともに出現する。
 時計台をまばゆく照らす河岸街。方々で点滅するネオンサインが、川の水面にその鮮やかな光を反映している。──やがてそれらは、さざなみとなって川辺に押し寄せる、黒い水のゆらめきに呑み込まれていく。ちょうど桟橋から、湯治客の神々を乗せた屋形船が出航するところだった。
「あの船、懐かしい!」
 ゆっくりと遠ざかる赤提灯の光を見送りながら、千尋が縁日を訪れる子供のようにはしゃいでハクの袖を引いた。
「あれ、覚えてるよ。船が止まったらね、紙のお面の神さまがいっぱい降りてきたのっ」
「それはきっと、春日さまだね。いつも団体で湯屋に来るお客さまなんだよ」
 ハクは千尋の視線の先を追い、笑いがちに軽く頷いた。
 彼にとっても、それは懐かしい記憶だった。
 屋形船が目指す対岸には、この街とは別のもう一つの歓楽街が、まるで真昼時のように明るくきらめいている。千尋があの街に漂着した時のことを、ハクはつい昨日の出来事のように明瞭に覚えている。驚きと焦燥と使命感と──打ち消しようのない喜び。その美しい思い出をいつも胸に、あの時計台の音楽時計を鳴らしていた。
「こうして千尋の傍にいることが、私には夢のようだよ」
 水の向こうに消えていく船影から、ハクは隣の千尋へと視線を戻した。
「また会えて、本当に嬉しかった。──だからかもしれないね。時々、もしかしたら夢を見ているのではないか? とさえ思うのは」
「ハクもそうなの?」
 水面が照り返すネオンライトをゆらゆらと浴びながら、千尋ははにかんで俯いた。
「わたしもね、あんまり幸せすぎて、なんだか夢を見てるみたいな気がするの。……だからこうやって、ハクの手を握ってると、すごく安心する」
 二人は同時に、結びつきを強めた手を見下ろした。それから目と目が間近で出会い、ほんの少し肩を竦めて笑い、水際に吹く微風が頬を冷ましてくれるのを待つところまで、すべての所作が示し合わせたかのようにぴたりと一致していた。
 以前は、こうではなかった。
 千尋はまだほんの幼い子供で、理不尽にも両親の業をその小さな肩に負わされた、不幸な囚われ人だった。ハクはその出現に驚き、焦燥しながらも、この健気な人間の少女をどうあっても守り抜くという使命に駆られていた。
 千尋とこうして見つめ合おうとも、手を握っていようとも、狼狽えることなどなかった。むしろ波立つ千尋の心を落ち着かせるため、誰よりも近く寄り添うことに、何の躊躇もなかった。
 あの頃と、何が違うのだろう。
 千尋は年頃の娘に成長し、自らの意思でこの街を訪れている。
 ハクに会いたいというただその一心で、今も彼の隣でこの街の土をしかと踏み締めている。
 ──それを何にも替えがたい幸せだと思う自分の心に、彼はとうに名を与えてしまった。
「ハクはどうして、この街にいるの?」
 まだ頬にはじらいの名残をとどめたまま、千尋が訊ねてきた。
「湯婆婆の弟子をやめる、って言ってたよね。もう……湯屋には戻らないの?」
 うん、とハクは答える。
「契約書はもう消えたから、私を湯婆婆のもとに縛りつけるものは何もない。──それでも私がこの街にいるのは、“道”を探しているからさ」
「“道”?」
「そう。向こうの世界に渡るための“道”だよ」
 彼は千尋の手を引き、河岸街の目抜き通りをゆっくりとした歩調で進んでいく。その通りには異形の神々が往来し、屋号を呼び立てる客引きの声が飛び交い、食べ物や薬草など、様々なものの入り混じった不思議な香りが漂っていた。
「私はこの街で店を開いていてね。……ほら、あの“薬”と書いてある緑の壁の店だよ」
 見慣れた店構えを指して、彼は千尋を振り返る。千尋はぽかんと口を開けてその店を見つめていた。その間にハクが店先の硝子戸を開け、中の照明をつける。
「さあ、お入り」
 千尋は勧められた椅子に座ると、興味津々の様子で店内を見回した。
「ここ、何のお店? 薬屋さん?」
「いや、喫茶店だよ。前は薬屋だったみたいだけどね。おかげで、よく間違えられるんだ」
 ハクの淹れたコーヒーで一服したところで、千尋は再び彼の探している“道”について訊いてきた。
「“道”といっても、さっき私たちが通ってきたような道ではないんだ。私をあちらの世界に通してくれる、“人”を捜してる」
 彼は綺麗に切り分けたカステラを皿に載せて千尋に勧めると、少し考えてからこう言い直した。
「いや。正確にはそれは“人”ではなく、“神”でなければならない。──つまり、神さまにも疲れてしまう時があるだろう? 現にこの世界へ湯治に来たがる神々は大勢いる。私が考えているのは、そうした神々の仕事の代行だとか手伝いだとか、何かしらの頼み事を引き受けることを条件に、向こうの世界で私の存在を保てるように保証してもらうことはできないだろうか、ということなんだ」
 カステラを頬張りながら、うんうんと千尋は頷いた。そしてやや思案した後、
「でも、それって神さまの頼み事を聞いた時にしか、向こうの世界に戻れないってことだよね。ハクはそれでいいの?」
「もちろん、完全に向こうの世界に戻れる方法があるのなら、願ったり叶ったりだけどね。私の川が消えてしまった以上、それはとても難しい話だから──」
 口ではそう言いつつ、千尋を目の前にして、ハクは自然と表情がほころぶのを止められない。
「それでもね。たとえほんのわずかな時間でも、千尋と同じ世界にいられるなら、今の私は充分幸せだよ。……いや、充分過ぎるくらいだ」
「──うん」
 千尋はますます赤い顔をして、コーヒーに幾つもの角砂糖を投入した。




20.09.12

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