菜花が泣いている。親を見失った子供のようにしゃくりあげている。姿も見えぬうちから、彼にはその声の主が分かっていた。
──もう、泣くのはよしなさい。
こうなることは、定めだったのだから。
過ぎていく者のことよりも、おまえは自分の身を案じなければならないよ。
声をかけてやりたかったが、それが叶わぬ願いであることを彼は知っていた。だから届けようのない言葉は、鉛の塊のように重く心の底へ沈んでいった。
目先に広がる世界は、北の雪原よりも白かった。ゆるやかにうねる川とも道ともつかないところを、菜花がすすり泣きながら歩いている。その周りを取り巻く街並みがうっすらと見える。摩天楼。広告塔。自動車と、洋装の人々。
菜花が一歩進むごとに、建物はより高く、ネオンサインはより眩しく、車や人間はより機械的に変化していく。すさまじい早さで時が流れているのだと彼は思った。目まぐるしく進化を遂げるその景色の中で、変わらないものはただひとつ。たったひとりで生き急ぐ菜花その人だけだ。
その孤独な後ろ姿に、彼はかつての自分を見た。時は刻々と進んでいく。自分だけが、歩いても歩いても前に進めない。進めないはずなのに、いともたやすく周囲を追い越してしまう。
菜花もまた、同じ宿命を背負って生きているのだ。
──ふと、彼女が背後を振り返った。
猫のそれによく似た吸い込まれるような瞳が、なみなみと涙を溜めている。
「いかないで」
そしてその面差しもまた、因縁の蠱毒、猫鬼の強力な支配を感じさせた。
けれどその表情からは、邪悪さなど微塵も感じられない。
置き去りにされた子供のような、ひどく憐れみを誘う震える声で、彼女は彼の心にうったえかけてくる。
「ひとりにしないでよ、摩緒──……」
「菜花」
と摩緒はその名を口にした瞬間、驚いたような彼女の瞳と行き合った。
その奥に白く立ちこめているものは、見慣れた診療所の天井だった。
夢を見ていたのだと知ってもなお、夢の名残を探すかのように菜花の顔から目が離せない。
「ねえ、大丈夫? 顔色が悪いよ。まだ休んでたほうがいいんじゃない? 乙弥くんも戻らないし……」
気まずそうに菜花が言う。
彼はひとたび溜息をつくと、額に置いていた片手をのばして菜花の頭の上に乗せた。
「え。なに?」
子供をあやすようにポンポンとされて、菜花が赤面する。
摩緒は真面目な顔で一言、告げた。
「大丈夫だから」
「……だからなにが!?」
口調に反して、絞りたての手ぬぐいが気づかわしげにそっと彼の額に置かれた。心地よい冷たさを感じながら、摩緒は続く言葉を胸中にとどめている。
──おまえが泣くようなことは、何もない、ということだよ。
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(2020.9.5)