夜鳴き蝉


 何度目とも知れぬ寝返りをうつ。やはり落ち着かない。そうして右へ左へ転がるたび、彼の体の下で板葺屋根がミシミシと唸り声をあげている。屋内に眠る楓や珊瑚らはさぞ迷惑していることだろう。だが、寝苦しさにいらだつ犬夜叉の脳裏に、そのことを考慮する余裕などない。
「だーっ、やかましいっ!」
 いよいよ我慢がならなくなった犬夜叉は、憤然と跳ね起きた。
 首筋がじっとりと汗ばむ晩夏の夜。とうに日も暮れたというのに、どこかでひっきりなしに蝉が鳴いている。目を閉じていても耳をふさいでいても、じりじりと焼けつくようなその声が気にかかって仕方がない。とても眠れたものではない。それもこれもすべてかごめのせいだ、と犬夜叉は恨めしく思う。かごめがいないせいで、些細なことにこんなにも心がささくれ立つのだ。
「……あいつ、いつまでも何やってんだ。三日で帰る約束だっただろうが」
 仁王立ちになって骨喰いの井戸を見下ろしながら、犬夜叉は恨み言をこぼす。
 かごめには、絶対に迎えに来るなと再三念を押された。実家の神社の用事を手伝わなければならないのだという。人の出入りが増えるため、犬夜叉がいては色々と都合が悪いとのことだった。何やら厄介払いされたようで、犬夜叉は思わず腹が立った。誰が迎えになんて行くか、三日と言わずずっと向こうにいればいい、などと口まかせに啖呵を切ってしまった。
「……」
 己の言動と態度を思い返す犬夜叉の表情が、捨てられた子犬のそれのように心もとなく揺らぐ。
 自分から会いに行けば、あやまちを告白するも同然だ。つまりは負けを認めることになる。けれど、心ない言葉をかごめに投げつけたことは事実である。彼の言葉には、確かに間違いがあった。犬夜叉自身が反省し、井戸の向こうへ迎えに行くまで、かごめは戻らないつもりなのかもしれない。


 祠の外は、またも熱帯夜だった。
 神社の境内に人気はない。だが、普段の景色とは少し違っている。おそらく昼時に祭事か神事があったのだろう。参道の脇には露店らしきものが立ち並び、頭上に数珠つなぎの提灯が渡してある。
 そしてかごめの世界でも、この夜更けにもかかわらず、蝉が鳴いていた。木々に囲まれた境内を歩きながら、じりじりと耳を焦がすようなその鳴き声を、否応なしに犬夜叉は聴いている。どこへ行っても、この声からは逃れられないらしい。むしろここではいっそう高らかに鳴いているような気がする。かごめの部屋の屋根に着地すると、犬夜叉はふと面を上げて現代の夜景を見渡した。無数の星を散らしたように、彼方まで光り輝いている。あまりにも明るいので、蝉は、この刻限にもなお、天に日が昇り続けているものと錯覚しているのかもしれない。
 窓は開いていた。犬夜叉は気配を悟られぬよう、そっと中を覗き込んでみる。部屋には明かりがついている。柔らかい寝台の上で、この部屋の主がうつぶせに眠っているのが見えた。
「……なんでい。呑気に寝てやがる」
 ほっとしたような、拍子抜けしたような心持ちで、犬夜叉は彼女に近寄った。ちょうど湯上がりだったらしい。手拭いからこぼれた髪が濡れたままだった。犬夜叉の背後から風が吹いて彼女の髪を幾筋か散らした。犬夜叉は素早く振り向き、寝台の側に置かれた奇怪なものをじっと睨んだ。それは巨大な一ツ目を持っている。そして右へ左へとゆっくり首を振りながら、かごめに風を送っているのだった。
「なんだ、てめえ。かごめを狙ってやがるのか?」
 新手の妖怪が現れたかと警戒する犬夜叉だったが、しばらく睨みをきかせたのちにふと馬鹿らしくなり、刀から手を離した。これもあの自転車てつのくるまと同じように、かごめの持ち物なのだろうと判断したのだった。壊してしまえば、火に油をそそぐことになるだろう。
 かごめが眠っているのをこれ幸いと、犬夜叉はあどけないその寝顔を間近で独り占めすることにした。たった三日だが、その三日が過ぎるのが、胸を焦がすかと思われるほど待ち遠しかった。
「……おい。なんで今日、向こうに帰って来なかった?」
 やっぱり怒ってるのか、と溜息を吐くように犬夜叉はつぶやいた。指折り数えた三日間。かごめにとっては、とるに足らない時間でしかなかったのだろうか。穏やかな寝顔を眺めるうち、犬夜叉は次第に、今独占しているはずのものが、本当は最初から自分の手の内になどなかったのではないかという不安に駆られ、息が詰まるような苦しみを覚えた。──だが、すぐに頭を振ってそれを否定した。
 一ツ目が犬夜叉の背に向けられた。肩越しに、冷たい風がかごめの髪を吹き散らす。その唇に振りかかった髪の一筋を、犬夜叉は指先でつまんで耳の後ろに流してやる。かごめは心地よさげに眠っている。その安らかな眠りを守りたいと思う反面、今すぐ彼女を揺り起こして、自分の存在を知らしめたいという衝動に駆られそうになる。かすかに汗ばむかごめの頬に触れかけて、犬夜叉はどうにか踏みとどまった。爪が食い込むほど強く拳を握り締める。
 ふとその手が温もりに包まれるのを感じた。
 かごめの手だった。
 彼の心臓も、その手中にとらえられていた。
「──犬夜叉」
 勘付かれたかと赤面する犬夜叉だったが、どうやらそれは寝言のようだった。かごめの夢の中にもまた、彼女に恋い焦がれた夜蝉が一匹、ふらりと飛び込んできたらしい。
 鳴き声ばかりがけたたましいその蝉を、彼女はたった一声で、鎮めることができる。




20.08.26
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -