後の日に


「何をこそこそ見とるんじゃ?」
 肩口から七宝がちょこんと顔を出すと、彼は飛び上がらんばかりに驚いてみせた。振り向きざま、苦し紛れになにかを袖に素早く隠したのを、目ざとい七宝は見逃さない。
「なっ、なんでい。いきなり話しかけてきやがって」
「さっきから、何度も呼んでいたではないか。気が付かなかったのか?」
「……けっ。ちょっと、考えごとしてたんでい」
 犬夜叉は七宝から目をそらす。それがばつの悪い時の癖なのだということを、七宝はよく知っている。その証拠に、彼の手はかたくなに袖口に差し入れられたままだ。
「今、なにを隠したんじゃ?」
「な──なんにも隠してなんかねえ」
「嘘をつけ。おらに見られては、まずいものか?」
「しつこいガキだなっ。隠してねえっつってんだろうが」
 なおも七宝は食い下がる。この半妖は、煽れば煽るだけ燃え上がる気性の持ち主である。やましいことを執拗にさぐり続ければ、いずれ必ず口より先に手が出る。案の定、七宝のしつこさに堪忍袋の緒が切れた犬夜叉は、いい加減にしやがれ、と拳骨を振り上げた。瞬間、七宝はきらりと目を光らせた。がら空きになった袖口から、犬夜叉が後生大事に隠し持っていたものを、さっとかすめ取る。
「──あっ、コラ、返しやがれ!」
 犬夜叉は焦って七宝の尻尾をつかむが、
「往生際が悪いぞ、犬夜叉!」
 してやったりとほくそ笑みながら、逆さ吊りのまま、七宝は戦利品をまじまじとながめた。その両眼が、こぼれんばかりに見開かれた。
「えっ──……かごめ?」
 思わず呼びかけてしまったのも無理はない。紙きれの中に、懐かしい人の姿が見えるのだ。見慣れた着物を着て、屈託のない表情で七宝に笑いかけてくる。心なしか、七宝の知る彼女よりもやや幼く見える。──七宝ちゃん、と呼び返す声が聞こえてくるかのようだ。
「"しゃしん"、って言うんだとよ」
 溜息をつきながら、犬夜叉が打ち明ける。宝物を掘り当てられてしまい、もうどうにでもなれという顔つきだ。縛めから解放された七宝は、犬夜叉のかたわらで食い入るようにそれを見つめていた。
「……不思議じゃのう。なんで、かごめが紙きれの中にいるんじゃ?」
「さあな」
 ぶっきらぼうな声だった。七宝は横にちらと目を移した。御神木に背中をあずけた犬夜叉が、澄んだ切なげな瞳で、頭上に差しかけられた深緑の天蓋を見上げている。柔らかな木もれ日に誰を想っているかは明らかだった。その心の中に、土足で踏み入ってしまったような後ろめたさを覚えた七宝は、おずおずと手の内のものを持ち主へ返した。
「──のう、犬夜叉。かごめが、おまえにこれをくれたのか?」
「……あ?」
「いつかおまえと離れ離れになることを、かごめは心のどこかでわかっていたんじゃろうか?」
 犬夜叉は何度か瞬きをする。そして少し笑って、首を横へ振った。
「いや。これをくれたのは──……」
 

 まだ井戸が通じていた頃のことだ。犬夜叉は、かごめの実家で暇を持て余していた。かごめが留守の間、外出することのないよう再三念を押されていたのだった。約束をやぶればおすわりを連発すると脅迫されたので、足腰の健康のため、仕方なくかごめの部屋でじっとしていた。
「犬夜叉くん、ちょっと降りてこない?」
 退屈のあまり生欠伸がとまらない彼に、かごめの母からお呼びがかかった。居間に降りてみると、なにやら書物にしては大振りで分厚いものが畳の上に積み重ねてある。何気なく手近なものをひとつ開いてみて、犬夜叉は驚愕した。中には何枚かの紙きれが貼り付けてあり、それらの中でかごめが笑っているのだった。
「なんでかごめがこんなにいるんだ? ……まやかしか?」
 犬夜叉は目をごしごしと擦った。それからまだ半信半疑の様子で、紙きれの表面に指の腹でそっと触れてみた。つるつるとなめらかなばかりで、かごめに触れているという感触はない。
「これはね、写真っていうの。思い出を残しておくためのものなのよ」
 かごめの母が教えてくれた。絵巻物のようなものか、と犬夜叉は解釈した。
「絵にしちゃよく描けてるな。──これ、ガキの頃のかごめか?」
「ええ。これは七五三の時ね」
「"しちごさん"? 誰でい、それは」
 ふふ、とかごめの母が笑った。
「人の名前じゃないのよ。子供のお祝いみたいなものね」
 髪を結い、鮮やかな赤い着物を着た幼いかごめが、紅を引いた唇でにっこりと笑いかけてくる。子供の頃のかごめはこんな顔をしていたのか。この世の汚れの一点さえ知らないような、無垢な表情だった。
「かわいいでしょう?」
「……お、おう」
 むずがゆさを覚えた犬夜叉は、鼻の頭を掻いた。好ましいものを面と向かってそうと認めるのは、なかなかこそばゆい。そうして何冊か繰っていくと、やがて見慣れた着物姿のかごめが出てきた。
「中学校の入学式だわ。御神木の前で撮ったのよ」
 人差し指と中指を立ててくしゃりと笑うかごめからは、まだ子供時代を抜け切れていないあどけなさが感じられた。馴染みの着物は今と同じものなのだろう、当時のかごめには少し大きいようだ。
 笑顔の愛らしい、ごく普通の少女がそこにいた。その少女は、四魂の玉をめぐる数奇な因果など、知る由もない。
 ──もしも時をさかのぼり、その日のかごめに声をかけることができるなら、彼はどうするだろう。一刻も早くかごめと出会いたいがために、井戸に入ることを急かすだろうか。あるいは、危険な目に遭わすことが忍びないからと、真逆のことを告げるだろうか。
「犬夜叉くん?」
 長いこと同じ一枚を見つめている犬夜叉に、かごめの母が優しく呼びかけてきた。やはり親子だけあり、笑った目元が似ていると犬夜叉は思った。
「この世界で、かごめは生きてきたんだな」
「ええ、そうね」
「──おれが知ってるのは、今のかごめだけだ」
「そうかしら?」
 かごめの母が微笑んだ。犬夜叉はまごついた。一体なにが言いたいのだろう。かごめの母は、厚紙の表面から透明の膜のようなものをめくり、犬夜叉が見つめていた紙きれの一枚をそっとはがした。それを気前よく差し出してきたので、ますます犬夜叉はうろたえた。
「大切な思い出なんじゃねえのか?」
「写真は焼き増しできるの。だから、これは犬夜叉くんにあげるわ。──かごめには内緒よ? 犬夜叉くんにあげるなら、もっといい写りのにしてって言われそうだから」
 そう言って、かごめの母は見終えたものを片付け始めた。犬夜叉も運ぶのを手伝った。その中に十数年分のかごめの思い出が詰まっていて、それをかごめの知らないところで振り返ったのだと思うと、不思議な気分だった。犬夜叉を知らないかごめは、屈託のない眩しい笑顔を見せていた。犬夜叉がおらずとも、かごめの世界は幸福で満ち足りている。その完璧な世界を捨ててまで、そばにいてほしいと願うのは、果たしてかごめにとって幸せなことなのだろうか。かごめが帰宅するまで、犬夜叉は延々と考え続けた。二人で井戸を通り抜けたのちも、まだ答えは見つからなかった。


「くぉら、このすっとこどっこい!」
 たまらずに七宝がその頭を叩いた。否応なしに過去から引き戻された犬夜叉は、怪訝な顔をする。
「なにしやがる」
「どうせまた、うじうじとかごめのことを考えとったんじゃろ。いい加減、そのしみったれた顔も見飽きたんじゃい!」
「なっ……このガキ、さっきまでしおらしくしてたかと思えば!」
 犬夜叉はひくひくと口角を引きつらせた。七宝の肩も冷や水を浴びたようにぶるぶると震えている。
「かごめは戻ってこんで正解じゃな。こんな陰気なやつと一緒におっては、不幸のどん底へ真っ逆さまじゃ!」
「なんだとっ!?」
「おまえなんぞでなくとも、きっとむこうの世界にいくらでもいい男がおるわい!」
「てめえ、言わせておけば次から次へと……!」
 逆上しかける犬夜叉だったが、はっと目を見開いた。七宝の両眼から大粒の涙がほろほろと転げ落ちている。
「おらだって、おらだって、かごめに会いたいんじゃ! おのれだけがつらいと思ったら、大間違いじゃっ。犬夜叉のアホが諦めたら、本当にもう、二度と会えなくなるじゃろうが……」
 エビのように背を丸め、しくしくと泣き出す七宝。かごめの顔を見せたために、かえって心細くなったのかもしれない。犬夜叉は溜息をつきながら、前髪を額の上にかきあげた。怒りで沸き立った血気が急速に冷めていく。何か言おうとして口を開くと、どこからか湧いてきた言葉が、ぽろり、ぽろりとこぼれ落ちた。
「バカ野郎。誰が諦めるかよ。──おれは諦めが悪いんでい。特に、あいつのことにはな。──何年、何十年かかろうが、構わねえ。おれはかごめを信じて、おれを信じて、あいつを待ち続けるんだ」
 丸まっていた七宝が、顔を上げた。その顔を見た犬夜叉は、ぐっと唇を噛んだ。──嘘泣きだ。その眼には涙の痕跡さえない。言質をとった誇らしさのためか、満足げににんまりと笑っている。
「言ったな? 今、かごめを待つ、と言ったな? おらはこの耳でしかと聞いたぞ?」
「し、七宝、てめえっ……」
 バキバキと犬夜叉の爪が鳴る。それでも七宝はにやにやしながら、
「まったく、未練がましい犬じゃなー。これではかごめもさぞ心残りじゃろう。──安心せい。いつかきっと、かごめはおまえのそばに戻ってくる」
「──てめえに言われなくても、んなこと分かってらあ!」
 犬夜叉が声高らかに吠えた。
 御神木の豊かな枝葉が、彼の頭上でさわさわと笑いさざめく。
「ほーれ見ろ。むこうでかごめが笑っておるぞ」
 けらけら笑いながら、七宝は村の方へ走り出した。




20.08.02
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