音楽時計


 はじめに千尋があの時計の音を聞いたのは、ちょうど荻野一家がこの町に引っ越してきた日のことだった。あの日はとても忙しかった。新居に入ってみると、指定した日時に一家が到着しなかったというので、引っ越し業者がとうに作業をすませた後だった。父が不思議がりながら業者の事務所へ合鍵を取りに行く間、千尋は母と二人で荷ほどきをしていなければならなかった。母の悠子はどうも虫の居所が悪かった。業者の融通が利かないことや、千尋の手際が悪いことなどを愚痴るので、千尋は余計に気を遣わなければならなかった。日没前、車が戻ってくると、国道沿いのファミレスで少し早めの夕飯を食べた。両親は、自分たちの身に起きた「全く身に覚えのない」奇妙な出来事について、しきりに首を傾げながら話し合っていた。千尋は引っ越し疲れで眠くなり、何度も目をぱちぱちさせていた。あの時計の音がその耳に聞こえてきたのは、ちょうど彼女が帰りの車に乗ろうとした時だった。
 後部座席のドアを半開きにしたまま、ぼうっと突っ立っている千尋に、父の明夫が「千尋?」と声をかけた。三度目の呼びかけで、ようやく千尋ははっとした。
「どうした? 引っ越し疲れかな」
「──ねえ、お父さん。あれ、なんの音?」
「うん? 音?」
「あっちの方から、お祭りみたいな音がするよ。もしかして、花火とかかな?」
 子供らしくそわそわする千尋だったが、父は顎に手を添えて、不思議そうな顔をしていた。
「うーん。お父さん、何も聞こえないけどなあ……」



 結局あの夜、夏祭りはなかった。父も母も、そんな音は聞こえないの一点張りだった。そんなはずはない。夏休み中にできた近所の友達にも、千尋はそれとなくあの音についてたずねてみた。けれど、一人として仲間を見つけ出すことはできなかった。やがて千尋は、そのことについて誰かに問いかけるのをやめた。周りの言う通り、「空耳」なのかもしれないと思うことにしたのだった。
 中学生になると、恐怖よりも好奇心が勝るようになった。相変わらず千尋は毎日、夕暮れ時になると、かすかに流れてくるあの音を聞いていた。どこで誰が何のために鳴らしている音楽なのか、なぜ自分だけが聞こえて他の誰にも聞こえないのか、皆目見当がつかない。だからこそ、ますます気がかりになっていった。
 学校からの帰り道、千尋は何度も森の中のトンネルを訪れた。あの音楽がそこから聞こえてくることは、とうに知っていた。けれど、そのトンネルは行き止まりだった。中に入れば通り抜けられるような気がするのに、いつも壁に行き当たるのだった。壁に耳をつけると、やはりあの音が聞こえてきた。出所により近いせいか、それはいつにも増して高らかに聞こえた。



「──あの、誰かそこにいませんか?」
 高校の夏休み、千尋は勇気を出して壁の向こうに話しかけてみた。随分前から、そこに誰かの気配を感じていたが、なかなか一歩を踏み出せずにいたのだった。
 しばらく待ってみても、向こうからの返事はなかった。それでも根気強く言葉を継いだ。
「ずっと、音楽が聞こえてました。わたしにしか聞こえない不思議な音が……。だからそっちに何があるのか、すごく気になってます。ずっと、知りたかったんです。──小さい頃は、お祭りがあるんじゃないかって思いました。縁日とか、花火とか……。今も、ちょっとだけ期待してます」
 その時、向こうで誰かがくすりと笑ったような気がした。ほんの一瞬の出来事だが、それこそがまさに数年越しの疑問に対する答えだった。千尋は水を得た魚のように、生き生きと目を輝かせた。
「やっぱり、誰かいるんですね!」
 千尋の声がトンネル内に反響した。相手にもその感動が、行き止まりの壁越しに伝わったのだろう。
「いるよ。私はいつも、ここにいる」
 澄んだ声が返ってきた。千尋はその声に、聞き覚えがあるような気がした。
「あなたは誰?」
「ここで、音楽時計を鳴らす者だよ」
「──わたしを知っているの?」
「千尋も、私を知っているだろう?」
 心臓を鷲掴みされたような息苦しさを覚えた。千尋は一歩、二歩と震える足で後ずさりした。そしてトンネルの出口へと転がり出ると、片手で動悸のする胸をおさえたまま、トンネルの上に突き出ているガラス窓を見上げた。
 ──そこに彼はいた。ほとんどの窓が夕日を散りばめる中、木々の深緑を映した数枚のガラスの向こうに、その姿はあった。彼が窓越しに愛おしそうに微笑みかけてきた瞬間、千尋の中で、硬く閉ざされていた記憶の扉の鍵が回る音がした。その扉の向こうから、あの不思議な音楽時計の調べとともに、千尋の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
「千尋、おいで。今なら、きっと通り抜けられる」
 唇の動きだけでは、すべての言葉を拾うことはできない。けれど、窓越しに彼が千尋を呼んでいることだけは確信が持てた。千尋は真っ直ぐに彼を見つめた。彼も穏やかな眼を向けて見つめ返してくる。それだけで千尋の胸には喜びが満ちあふれ、今にもその中で溺れてしまいそうになる。
 千尋はポニーテールをひるがえし、トンネルの中へと引き返した。何度かつまずきそうになりながら、行き止まりのなくなったトンネルをひたすら駆けた。記憶の扉はさまざまな思い出を開放した。そのひとつひとつが、まるで電車の窓に映る景色のように、千尋のかたわらを通り過ぎていこうとする。千尋はそのすべてを余すことなく胸に抱いた。二度と忘れはしない。
 トンネルの出口で、彼が千尋に両手を差し伸べていた。千尋は喉を震わせながら、彼の名を呼んだ。その声がトンネル内にこだました。千尋の心はブレーキをかけ忘れたまま、むしろより加速して彼の懐へと飛び込んでいった。彼は力を尽くして千尋を受けとめた。そうして一対の勾玉が隙間なくぴたりとかち合うように、互いを強く強く抱き締めた。
「ハク」
 うん、とハクは頷いた。何度も、何度も。
「千尋にも、時計の音が聞こえていたんだね」
「一日だって、聞こえない時はなかったよ」
 そう言って、千尋は見覚えのある駅舎の天井を見上げた。教会のヴォールトに反響するオルガンの音色のように、あの音楽時計の調べが高らかに響き渡っていた。抱擁し合う二人のかたわらを、姿なき神々が影のみを引いて通り過ぎていく。外からは歓楽街の賑わいが聞こえてくる。
「あの日からずっと、千尋の無事を願って時計を鳴らしていたんだ。──でも、本当はただ、忘れないでいてほしかったのかもしれない」
 ハクが千尋の頬に触れた。窓に嵌め込まれた四色のステンドグラスが、ハクの横顔に青い光を、千尋には赤い光をほのかに滲ませている。顔と顔が近づくにつれ、その二色はゆっくりと混ざり合い、どちらともつかない色になっていく。
「なんだか、結婚式みたい──」
 千尋はこそばゆくなり、唇を結んで笑った。ハクも何度か瞬きをした後、長い睫毛を伏せて、さすがに面映ゆそうな顔をした。




20.07.20 Spirited Away 19th Anniversary

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