宵庚申


 戸口からこっそり様子をうかがうだけのつもりが、うっかり見つかってしまった。つい逃げ出そうとするも、大声で呼び止められてはそうもゆかない。あれよあれよという間に腕を引っ張られ、気付けば犬夜叉は否応なしに人の輪の中へと引きずり込まれていた。
「混ざりたいんだったら、堂々と入ってくればいいのに。なんでこそこそ覗いたりしてたのさ?」
 背中の赤子をあやしながら、珊瑚が眉頭を持ち上げる。覗き見していたとからかわれるのは心外だ。犬夜叉はつねとは異なる黒髪を揺すり、いかにも不満げな顔つきで彼女に向き合った。
「誰がおまえらに混ざりてえと言った。おれはただ、かごめを捜してただけでい」
「ふうん。いないの?」
「何の集まりか知らねえが、かごめもここにいるんだろ。ったく、かごめのやつも、出かけるなら一言くらい言ってきゃいいものを……」
 ぼやきながらも、きょろきょろと瞳をめぐらせてその姿を捜す犬夜叉。夜更けにもかかわらず、屋内には村の衆が寄り集まっている。だが、捜し人だけが見当たらない。落胆の溜息をこぼしながら、胡坐をかいた腿に頬杖をつきかけた時、ふと、彼の人間姿を珍しがる女子供の好奇の眼差しに気付いた。見世物にされたようでますます気を悪くした犬夜叉は、口をひん曲げた。けれど村人たちもそうした彼の気性にはとうに馴染んでいたので、恐れをなすどころか、早くかごめさまが見つかるといいねえ、などと笑うばかりだった。
 奥の方で農夫たちと語らっていた弥勒が、犬夜叉の隣に腰を下ろした。これ見よがしに酒や料理を勧めてくるが、応じたが最後、あれこれからかわれるだろうことを予想した犬夜叉は、駄々っ子のように頑として目を合わせようとしない。弥勒は、何事だろうと問うように妻に目配せした。
「朔の晩だから、かごめちゃんがいないと不安なんだって。かごめちゃんも大変だよねえ。片時も離れていられないんだからさ」
「やかましい」
「まったく。おまえは相変わらず、かごめさまがいない時にはいつも不機嫌だな」
 弥勒と珊瑚が苦笑する。すると彼らの幼い双子が、犬夜叉を両脇から狛犬のようにはさんで、それぞれ手に持っている丸餅と飴菓子を食べさせようとした。つむじを曲げた犬夜叉は口を真一文字に引き結ぶが、双子はめげるどころか、彼の髪や耳を手加減なしに引っ張りだす。痛え、などと声を上げようものなら、二人して勝ち誇ったように手をたたいて笑う。この双子には半妖の処し方などお手の物なのであった。そのしつこさに負け、犬夜叉はとうとうあんぐりと口を開けた。むせ返りそうなほど色々なものが、双子によってその口の中に詰め込まれた。それらを消化するのに犬夜叉はしばしの時を要した。
「おまえら、こんな時間まで起きてるのかよ。夜更かしすると背が伸びねえぞ」
 双子がまだ食べ物を与えようとするのを、犬夜叉は両手でさえぎりながら、指摘する。弥勒が愛娘たちを優しく見守りつつ、首を振った。
「今夜はむしろ、この子らも夜更かしをした方がいい。庚申こうしん待ちの晩なのだから」
「庚申待ち?」
 聞き覚えがなかった。首を傾げる犬夜叉に、弥勒は頷いてみせる。
「おまえには馴染みがないだろう。庚申の日には、眠らずに夜を明かすことになっている。長話などして、皆で過ごすのが良いらしい。こうして集まっているのも、庚申講のためなんだ。眠ってしまえば、長生きできなくなると言われているからな」
 はは、と弥勒は笑った。酒が入っているせいか、すこぶる機嫌が良く見える。
「この御神酒はかごめさまが用意したものらしい。さすがはかごめさまお手製の酒、目も冴える清々しさだ。──ところで犬夜叉、おまえ、かごめさまを捜していたのではなかったか?」
「……おまえんとこの双子に足止めを食ってるんだろうが」
 両側から双子にもてあそばれながら、犬夜叉は憮然としている。
「おい、おまえら。かごめを見なかったか?」
 答えを期待していたわけではなかったが、双子は思いがけず、訳知り顔で目配せをした。その片割れが、着物の身八つ口に小さな手をちょんと差し込み、懐中にあたためていたものを犬夜叉の手に握らせる。それは一枚の葉だった。犬夜叉は目の高さにかかげてまじまじと眺めてみた。なんの変哲もないただの葉っぱだ。裏返してみると、そこに簡素な絵が描きつけてある。どうやら鳥の飛び立つ姿のように見えた。
「──多羅葉たらようの葉?」
 犬夜叉は独り言をこぼした。弥勒一家が顔を寄せ、一緒になってその葉を覗き込んでいる。
「多羅葉って、葉の裏に字が書けるっていう?」
「ああ。かごめの実家にも、木が生えてたらしいぜ」
 犬夜叉は葉書を握り締め、立ち上がった。一家が揃ってその顔を見上げる。
「かごめちゃんの居場所が分かったの?」
「さあな」
 手がかりをつかみ、意気揚々と出て行こうとするのを、弥勒が戸口でそっと引き留める。
「忠告しておくが、今夜は自重しておくのが賢明だぞ」
「何の話だ?」
 振り返る犬夜叉の耳元で、弥勒は神妙な顔をして囁いた。
「──庚申待ちの夜は、おなごに手を出してはならないということだ。かごめさまと二人きりだからといって、妙な気は起こすなよ」
 犬夜叉は耳を赤くして、その頭に渾身の拳骨を食らわせた。人の姿なのに力が強いな、と頭をさすりながら悪びれもなく弥勒が笑った。


 人間の鼻では、匂いをたどって行方を追うことはできない。それを知るからこそ、かごめは葉書という手がかりを犬夜叉に与えたのだろう。
 松明をかかげながら、犬夜叉は夜道を足早に進んでいく。朔の夜は鼻だけでなく、夜目も利かなくなる。明かりがなければ夜歩きさえままならない。つくづく人の体というものは不便だ、ということを思い知らされる。けれど、今夜はいつになく心が弾んでいる。非力な人間の姿であるにもかかわらず、長い夜に追われる不安よりも、かごめを追いかける楽しみの方がはるかにまさっているのだった。
 かごめの葉書には、心当たりがあった。鳥が飛び立つ姿。あれは燕に違いない。春先、燕の巣を見つけたと言って、かごめが大いにはしゃいでいたことがあった。燕の巣作りなど、犬夜叉にとってはさして珍しくもないことだが、彼女には驚きに値するものであったらしい。それから何度も様子を見に行っては、雛の鳴き声が可愛いだの、からすに狙われないように仕掛けをしただのと、逐一巣の様子を報告してきた。燕に対して余程愛着が湧いたらしい。彼は燕にこそ興味を示さなかったものの、そういう甲斐甲斐しいところがいかにもかごめらしいな、と内心いじらしく思ったものだった。
 その燕の巣というのが、今、犬夜叉が足を踏み入れた穀倉こくぐらにあるということだった。犬夜叉は松明を照らし、中の様子を確かめた。きっとかごめが隠れているだろうと期待していたが、予想に反して人の気配はなく、しんと静まり返っている。めげずに彼ははりを調べ始めた。すぐに燕の巣が見つかった。だが、燕は一羽も残っていなかった。雛たちは成長し、巣立っていったらしい。
 犬夜叉は積み上げた米俵を足場に、燕の巣に松明を近づけてみた。すると、巣の中に青いものが照り輝くのが見えた。手を伸ばしてみると、それはまたも多羅葉の葉書だった。今度は葉裏に花の絵が描いてある。新たな手がかりを得た犬夜叉は、外へ出た。宝探しに燃える少年のように、その目は輝いていた。


 燕の巣の次は、紫陽花だった。家に帰ってみると、桶の水に浮かぶ紫陽花の下に、新たな葉書が隠されていた。水に濡れた葉裏には鳥居が描かれていた。そこで鳥居の柱をあらためると、やはり葉書が貼り付けられていた。そうして犬夜叉はかごめの痕跡をひとつずつたどっていった。
 水辺に群生する半夏生はんげしょうの茂みで、金雲雀きんひばりしょうを打ち鳴らすような声を響かせている。喉の渇きを覚えた犬夜叉は、沢の水を両手ですくって唇を湿らせた。ふと、虫の音の底にかすかな物音を聞いたような気がした。耳を澄ませてみれば、確かに木の枝が重みでたわむような音がする。かごめが次に残した葉書には、鞦韆ブランコが描かれていた。犬夜叉は沢を飛び越え、勘をたよりに音の出所へ向かっていった。
 くぬぎ林を抜けると、星明かりの差す中に多羅葉の巨木がたたずんでいた。その木陰に鞦韆が揺れている。犬夜叉は足音をしのばせながら、その背に近付いていく。鞦韆に座っているその人は、まだ後ろを振り返ろうとしない。新たな葉書をこしらえるのに夢中なのだろう。多羅葉の木陰は深く、その白い衣の袖だけが蝶の羽のように青白く光って見える。
「──今度は、どこを捜させようってんだ?」
 突然耳元で聞こえた声に、かごめが小さな悲鳴を上げた。立ち上がりざまを、犬夜叉は待ちかねたように後ろから掻き抱く。
「鼻が利けば、すぐ見つけられるのによ。朔の日ってのは厄介だな」
 愚痴を吐きながらも、会心の笑みをもらした。捕まって観念したのか、かごめはもう逃げようともしない。ただ、書きかけの葉書を名残惜しそうに指先でいじっている。
「こんなに早く見つかるなんて、思わなかったわ」
「今のおれを見くびるなよ。鼻は利かねえが、いつもよりずっと勘が働くんだからな」
「──最後には、みんなの所で見つかるつもりだったのよ。だからお酒の絵にしようって思ってたの。知ってる? 今日は庚申待ちなんだって」
「ああ。弥勒から聞いた。村のやつら、みんな集まってるぜ。飲むわ食うわで、やかましいったらありゃしねえ」
 犬夜叉は鞦韆に座り、かごめを膝の上へ乗せた。重くないの、などと訊いてくるが、無視してそのまま鞦韆を漕ぎだした。支えを必要としたかごめが胴にひしと抱きついてくる。普段のように鼻は利かないが、これほど近付けば否応なしに彼女の匂いが鼻先をかすめる。鞦韆の紐につたわせた花の芳香さえ、その髪からほのかにただよう香りには到底かなわない。いつ何時も、その匂いは犬夜叉にとって唯一の安らぎだった。鞦韆に揺られながら、犬夜叉は今宵が新月であることを忘れ、つい眠ってしまいたいような心地になった。
「朔の夜なのに、今日は機嫌がいいのね」
「……悪いかよ?」
「まさか。あんたが楽しそうだと、私も気分がいいわ」
 そう言って、かごめは犬夜叉の頬に口づけをした。虚を衝かれた犬夜叉だったが、やられっぱなしでいられる性分ではない。すぐさま彼女の唇に仕返しする。かごめの吐息が彼の舌に甘く絡みついた。危うく溺れかける犬夜叉だったが、鞦韆の紐を結びつけた枝がしなる音で、どうにかそれ以上の深みにはまらないよう自重することができた。
「──弥勒の野郎に妙な勘繰りをされるのも癪だからな。そろそろ、戻るぞ」
「なによ。弥勒さまから、何か言われたの?」
「……」
「どうせ、また助平なことでしょ」
 犬夜叉はかごめの手を引いて、多羅葉の木陰から抜け出した。夜空に無尽蔵の星屑が散らばっている。月のない夜だが、目先にあるものを愛でるくらいの明るさには事足りている。振り返れば、無人の鞦韆がまだ小さく揺れていた。浜辺に細波の打ち寄せるような、涼やかな葉擦れの音がする。
「かごめ。おまえ、おれで遊んでただろ」
「え?」
「おれにおまえを捜させて、暇つぶししてたな」
「そんな子供みたいなこと、しないもん」
 しらばっくれるかごめだったが、犬夜叉には分かっていた。
「よく言うぜ。──ま、おかげでいい退屈しのぎになったけどな」
 寄合所からは、相変わらず村人たちの笑い声と、暖かな明かりがもれ出ている。庚申待ちの今宵は誰も眠らない。共に長い夜を過ごし、夜明けが来るを待っているのだ。
「あっ、おしどり夫婦が帰ってきたよ」
 犬夜叉はそれがごく自然なことのように、かごめと共に人の輪の中へ加わっていた。そうして自分の心にもたらされた変化を感じていた。人間の姿を人目にさらすのは、他人に弱みを握らせるのと同じことだと思っていた。いつも周囲は敵ばかりなのだと警戒していた。そうして新月の闇の中に、見えない敵を作り出していたのかもしれない。
 酔い潰れてうたた寝しかけている夫を、妻が叩き起こしている。周りからどっと笑い声が上がる。陽気な唄を口ずさむ娘がいる。その節にあわせて田楽を舞う若者がいる。どの顔ぶれも、素朴で気負いがなく、ささやかな楽しみを味わう喜びに満ちている。犬夜叉の頭に犬耳が生えていなくとも、爪や牙が消えていようとも、彼らが敵意を向けてくることなどないだろう。ここにあるのは、戦闘ではなく日常だ。闇ではなく、光だ。犬夜叉は肩の力が抜けていくような心地がした。傍らでは、かごめが満面の笑みで周囲の手拍子に加わっていた。






20.07.10

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