竜の水車

 自転車を手で押しながら、徒歩で来なかったことを今更ながら千尋は後悔した。森の中の通路は舗装などされておらず、車輪が土や石につっかえたりして厄介なのであった。引き返して家に自転車を置いてこようにも、すでに道順の八分目ほどまで来てしまっている。仕方なしに無用の長物を引き連れながら、千尋は木漏れ日の躍る道をのろのろと歩いていった。
 やがて、木々の開けたところに門が見えてきた。千尋は塀際に自転車を停め、かごの中からトートバッグと紙袋を取り出した。デパートのロゴが印刷された紙袋には、母から持っていくよう言われた菓子折りが入っている。何事も最初の印象が肝心だから、と出がけに再三念を押された。
 門には表札がかかっていなかった。そう言えばこの家の住人の苗字さえ聞いていなかった、と千尋は思い出す。表札のみならず、呼び出しボタンも見当たらない。千尋は一か八か、扉を片手でそっと押してみた。すると木々の軋む音を立てて、それはわずかに開いた。その隙間に彼女はえいと体を滑り込ませた。
「ようこそ」
 突然、穏やかな声に出迎えられた。千尋の瞳はその主を探した。探すまでもなく、屋敷の玄関口で半開きにした戸から、ちらりと顔を出す者がある。屋敷の佇まいに似つかわしく、古風な装いをした若者だった。
「待っていたよ。来てくれて、ありがとう」
 青年は親しみをこめて、千尋の手を握り締めた。そのまま手を引かれ、屋敷の中へといざなわれながら、彼女の目の内では戸惑いが、波に見舞われた小舟のように浮き沈みしている。
「あの、ここにお住まいですか? わたし、おばあさんが一人だけって聞いたんですけど……」
「私がこの家の住人だ。それではいけないかな?」
 逆に質問で返された。曇りガラスの向こうを覗くように至近距離でじっと見つめられ、千尋は目を逸らすに逸せずにいる。
「おばあさんの体が不自由だから、夏休みの間だけ、お手伝いをしてほしいって……」
「ああ。生憎、私の脚はこの通りでね」
 そこでようやく、彼女は相手が杖をついていることに気が付いた。訳もわからず心のどこかに安堵を覚えた。──それは千尋の防衛本能による働きかけだった。大きな屋敷で若い男と二人きりで過ごさなければならないという状況に、女としての本能が警鐘を鳴らしたのだ。けれど杖なしでは満足に歩けないというのなら、目の前の青年が彼女に害をなすことはないだろう。
「じゃあ、お手伝いが必要だっていうのは、本当なんですね?」
「うん。私には、千尋が必要なんだ。ここに居てくれたら嬉しいよ」
 噛み合っているのか噛み合っていないのか、よく分からない会話にしばし気を取られていた千尋だったが、ふと若者が自分の名を呼んだことに、既視感のような奇妙な感覚を覚えた。思わず相手の顔をまじまじと眺めてしまう。
「私のことが、珍しい?」
「そうじゃないんです。珍しいどころか、むしろ、懐かしいような気がして……」
 青年は頷いて、そうだろうね、と言った。どういう意味だろう、と千尋は引っかかりを感じた。けれどずっと玄関に立ち往生しているわけにもいかない。
「靴を脱いだら、中を案内しよう」
「はい。──あの、わたしは何て呼んだらいいですか? あなたのこと」
 脱いだ靴をきれいに並べている千尋の頭を、屋敷の若主人は目を細めながら見守っている。
「ハク、と呼んでほしい」


 屋敷は広くて古かったものの、中は片付いていた。それでも一部屋ずつ回って掃除をするのは大変そうだというのが千尋の第一印象だったが、家主は自分の部屋だけ掃いてくれればそれで良いと言う。千尋は肩透かしを食ったような気がして、出来る限り他の部屋もきれいにしますとだけ返した。
 仕事熱心なのは良いことだね、と若主人は笑った。が、ある部屋の前まで来ると、はたと真顔になって立ち止まった。
「どの部屋を使っても構わないが、この部屋にだけは入らないでもらいたい。中に人目には触れさせたくないものがあるからね」
「……わかりました」
 これがいわゆる開かずの間なんだ、と千尋は生唾を飲み込みながら実感した。こういった大きな屋敷には「いわくつき」の部屋の一つや二つがあるものらしいが、それは物語の世界の話だと思っていた。
 最後に案内されたのは、家主の部屋だった。少し話をしようと言うので、千尋は先程勝手を覚えた台所で茶を淹れて、お茶請けに菓子折りの豆大福を出した。
「ありがとう。気が利くね」
 そう褒められて悪い気はしない。はにかみながら、母に菓子折りを持たされたことを打ち明けた。すると彼は、律儀なお母さんだね、と称賛した上で、千尋の母について訊ねた。自然と彼女の家族が話題の中心を占めていった。家族について話すことで、千尋は目の前の相手に対して幾分か打ち解けたように感じていた。親しみさえ覚えながら、今度は彼女の方から質問してみる。
「ハクさんは、家族はいないんですか。ずっと一人でこの家に暮らしているの?」
「ハクでいいよ」
 若主人も気さくに返してくる。
「家族はいない。夏の間は、ずっとここにいるんだ」
「じゃあ、別荘とか、避暑地とか、そういう場所なんですね。いいなあ、そういうの」
 千尋はきらきらした目をガラス窓の外へ向けた。するとその横顔を眺めていた家主が、おもむろに手を伸ばしてきた。口の端に彼の指先が触れ、千尋ははっと目を見開いた。若者は首をわずかに傾けて微笑んでいる。茶菓子についていた片栗粉が彼女の唇に残っていたらしい。頬を赤くして千尋は俯いた。
「千尋も、ここを家だと思って寛いでくれたらいい。話し相手になってほしくて、ここへ呼んだのだから」
「お話がしたいなら、いつでもお相手します。でも、あの、お手伝いもしなくちゃ……」
 青年は千尋の唇に触れたその指先で、小さな菓子をそっとつまみ上げた。それが彼の口元に運ばれていくのを、千尋は横目でちらちらと見ていた。優雅な所作で食べ終えたかと思うと、彼は目を伏せ、指先についた粉を舌の先でちろりと舐める。
 千尋はすばやく目を逸らした。小走りに駆けたあとのように、胸がしきりに弾んでいる。何やら見てはいけないものを目の当たりにしてしまったような気分だった。


「折角だから、外も見てみようか」
 そう言って、彼は千尋の手をとらえた。長い指が蔦のように彼女の指を絡めた時、またしても心が落ち着きを失いそうになった。
 昨日、帰宅してから母に屋敷でのことを訊かれた。どんな屋敷なのか、家主は人当たりが良いのか、夏休みの間手伝いに通うのを続けられそうか。──その住人が年老いたおばあさんなどではなく、千尋とさほど年の離れていないような美しい青年であることを、母に正直に告げるべきかどうか、一瞬千尋は迷った。けれど結局、大丈夫、の一言しか繰り出すことができなかった。真実を打ち明けてしまえば、二度とあの屋敷へは行けなくなるような気がした。
 母は近所の人づてに、このアルバイトの話を持ちかけられたということだった。ちょうど夏休みで暇を持て余していた千尋だったので、二つ返事で承諾した。最初に屋敷からの依頼を受けたのが誰であったのかが、今になって千尋は気にかかっている。家主は体の不自由な老婆だと聞いていた。母もそう信じている。けれど千尋はそれらしき住人の姿など見ていない。
 ふと千尋は屋敷を見上げた。ガラス窓が日の光を反射して、まるで磨きたての鏡のように輝いている。そのうちの一枚に目を留めた千尋は突然、歩みを止めた。青白い老婆の顔が、窓の中の暗がりにぼうっと浮かび上がったような気がしたのだった。
「千尋?」
 振り返った若者に不審を抱かせないよう、千尋は咄嗟に笑顔を見せた。目にごみが入ったと言い訳をして、目蓋をごしごしと擦る。彼がまた歩き出したのを見計らい、もう一度同じ窓をちらりと見上げた。けれど今度は角度が変わってしまったためか、日光の強い照りつけで、中の様子までは見えなかった。
 あれは確か開かずの間だった。でも、ひょっとすると見間違いだったのかもしれない。おばあさんのことを考えていたから、老婆の顔が見えたように錯覚したのかもしれない。きっとそうだと自分に言い聞かせながら、千尋はどこか見覚えのあるような背をぼんやりと見つめていた。
 夏草や花の生い茂る屋敷の脇道をしばらく進むと、苔に覆われた古い水車小屋があった。森の奥からそそぐ小川の流れが、ゆっくりと水車を回している。
「水の力で、粉をいているんだ」
 物珍しげに水車を眺めている千尋に、青年はそっと耳打ちした。
 じわじわと、耳にとりついて離れない蝉時雨の騒がしさ。それらを一滴残らず集めて遠くへ押し流すかのような、涼やかで清らかな水の音がする。その心地よさに耳を澄ませながら、千尋は目を閉じた。額や首筋から、汗がしだいに引いていくような気がした。
「わたし、何年もここに住んでるんです。なのに、森の中にこんなところがあるなんて、全然知らなかった」
「そうだろう。誰にでも見つけられる場所ではないから」
 まるで謎かけのような物言いだった。胸で浅く呼吸をする度に、自分がその謎の深みにますますはまっていくことを、否応なしに千尋は思い知らされる。すると彼がおもむろに手のひらで千尋の頬を包み込んだ。長く水に浸したかのようにひやりと冷たく、それでいて不思議と離しがたい手だった。
「ハクさん」
「ハクでいいよ」
「ハク。わたし、きっとあなたを知ってる」
 うん、と彼は頷いた。木漏れ日の下で、その瞳に一点の光が差していた。


 今日もハクは、金の粉薬を飲んでいる。
 何の薬かは分からないが、それを飲むと体の調子が良いのだという。廊下の拭き掃除をしながら、千尋はちらちらとその様子を窺っている。窓辺の彼が湯呑みを手にしたまま、ふと彼女を振り返った。
「おいで。そろそろ休憩しよう」
 盗み見していたことに若干の気まずさを覚えながら、千尋はおずおずと部屋の中に入った。
「さっき、休憩したばかりなんだけど……」
「千尋の仕事は、私の側に居ることだから」
 ハクの手が千尋の手首をつかみ、そのままぐっと自分の方へ引き寄せた。千尋は体の均衡を崩してハクの胸にしなだれる格好になる。部屋の中は藺草いぐさ樟脳しょうのうの匂いがした。どこか懐かしい香りだ。彼は千尋を両手で強く抱き締めた。
「お湯がこぼれちゃったよ」
 湯呑みが畳の上に転がり落ちたのを千尋は気にかけるが、ハクは放してくれそうにない。押しつぶされた胸から、心臓の忙しない鼓動が筒抜けになっているだろうことを思い、千尋の首筋がじっとりと汗ばんでくる。
「かわいい千尋」
 千尋は彼の肩越しに、窓の外の青空を見ていた。浜辺に打ち寄せる海水のように透き通った空が、ガラスの中をゆったりと流れている。千尋は小さな魚になって、水の中を泳いでいるような感覚に見舞われた。そこに白波が押し寄せてきた。ハクが千尋を畳の上にゆっくりと押し倒した。
 ハクの瞳の中に、千尋はなおも水中の景色を見出していた。それはつかの間の幻覚ではなく、いつの日かの確かな記憶だった。両手を伸ばして千尋は彼の顔に触れてみる。すべらかな肌の感触を確かめるように、何度も撫でる。
「鱗は、ないの? ハク」
 彼が一瞬目を見開いた。そして感情の奔流がほとばしるのをこらえるかのごとく、そっと微笑しながら、千尋の耳へ唇を寄せた。
「あったら、千尋の肌を痛めてしまうよ」
「わたし、痛くなんかない」
「でも、これからもっと痛い思いをさせてしまうかもしれない。だから、先に謝っておくよ」
 千尋の心はとうに彼への許しを与えていた。ハクの頭を、忙しなく高鳴る自分の胸へと抱き寄せる。ハクは千尋の鼓動に耳を澄ませていた。まるで水琴窟すいきんくつの鳴るような、不規則な音が聞こえているに違いない。
 やがてハクは、彼女の左手の指に自分の五本指を組み合わせ、解けることのないよう強く握り締めた。千尋も、その手をしかと繋ぎ返した。千尋の首筋にぱたぱたと降りかかったものがある。彼の頬から顎先にかけて、汗とも涙ともつかないものが伝い落ちていた。
「──暑いの? ハク」
 千尋は手を伸ばして、その滴に触れた。冷たい鉄の溶けたような眼差しで、ハクが千尋を見下ろしている。
「熱いよ、とても」
 そう言って、彼女の肩に口付けた。その唇の跡が、肌に焼けつくかのようだった。



 今日も千尋は、窓を見上げている。
 あの部屋に何が隠されているのかを、無意識に探究したがっているのだろう。けれどハクは、答えを明かすつもりはない。明かそうが明かすまいが、それはじきに消えてなくなるものだからだ。
「今日も、いい天気だね」
 見られていることに気付いた千尋は、空を仰いでまぶしそうに片目をすがめた。繋いだ手がしっとりと汗ばんでいる。ハクは真上から照り付ける太陽よりも、傍らの千尋の首筋が汗でつややかに光るのを、より眩しく感じている。
 彼女との出会いは、いつも夏の盛りだった。だから、今度も灼けつくような夏がいいと思った。
 青い夏草が、千尋の顔の側で揺れる。千尋は何かにしがみついていたいのか、汗ばむ手で草の根の束をつかんでいる。ハクはその手を包み込むようにして、強く握り締める。木漏れ日と彼自身の影が、千尋の上でさわさわと揺れている。
 水車はゆっくりと回る。絶えず水を運び、送り出してはまた迎え入れ、やがて元の位置に戻ったかと思うと、再び動き出す。
「でも、今度はもう離さないよ」
「え?」
 前をゆく千尋が振り向きざま、早咲きの合歓ねむの花が、頭上からはらはらとこぼれ落ちた。



(10周年御礼・あずさ様より「ハク千甘々・アダルティ」) 

20.06.23

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