七ツ下がり
扉を閉める間際、菜花の瞳が上へひき寄せられた。昼間は青く澄んだ晴天だったものが、いつの間にか厚い雲に覆われている。頭の後ろで落ち着いた声が響いた。
「ひと雨、降りそうですね」
「ええ、本当に」
渋面を作りながら、患者が相槌を打つ。それが何の妖怪であるのかは、菜花には判らない。ただ、太鼓腹をかかえながら、ふうふうと脂汗をかいている姿を見るに、何らかの異常によって苦しんでいるらしいことは明らかだった。
「では、少し診せてくださいね」
聴診器を耳からはずし、摩緒は前のめりになりながら、患者の大きくせせり出た腹に手を触れた。菜花は小上がりに座って診察の様子を眺めている。初めのうちこそ異形の風貌に若干の恐怖を感じていたが、患者の口からうめき声が聞こえるたび、段々と気の毒に思えてきた。摩緒はしばらく念入りに触診をした。やがて机に向かうと、何かを書きつけながら「菜花」と彼女を呼ぶ。
「墨を磨ったことは?」
「墨?」
唐突な問いに、菜花はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「学校の習字でなら、やったことあるけど……」
「なら良かった。菜花、おまえにこの朱墨を磨ってもらいたくてね」
摩緒が書き物を続けたまま片手で寄越すのを、菜花は仕方なしに腰を上げて受け取った。目に近づけてまじまじと見てみると、古い字体の文字が小さく刻印されている。使いかけらしく、それらの文字のいくつかは欠けていた。硯は──と次に訊かれることを見越してか、摩緒は空いた手で小上がりを指差した。ちょうど式神の乙弥が、彼の鞄から布にくるまれた硯を取り出すところだった。
「それを使いなさい。水は、汲みたての水を差すといいだろう。それから、ただ漠然と磨るのでは意味がない。念をこめながら、丁寧に磨るんだ。いいね?」
「うん」
相変わらず人を顎で使うんだから、と心の中で反発しながらも、これも妖助け、と菜花は自分自身に言い聞かせる。
外の井戸で水を汲んでいると、湿った風が商店街の往来を吹き抜けていった。雨を予感した住人たちが、仮設店舗の天幕や商品を片付け始める。程なくして、鼠色の雲の中からぱらぱらと降り始めた。水差しを胸にかかえて、菜花は診療所へ駆け込んだ。
「おかえりなさい、菜花さん」
乙弥が薬研を繰りながら、菜花を一瞥する。菜花は頭に降りかかった雨露を手ではらい落とした。
「降ってきましたか」
「うん。なんか本降りになりそうだよ。──あの、帰る時は傘があった方がいいですよ」
患者はそれが自分に向けられた言葉であることに気付き、菜花へ振り返った。ちょうど薬を飲んだところらしく、土気色だった顔が幾分か調子を取り戻しつつあるように見える。
「ご親切にありがとう、お嬢さん」
「いえいえ。これ、良かったら使ってください」
リュックサックの中から取り出した折り畳み傘を、菜花は患者に手渡した。悪がって返してよこそうとするのを、なかば強引に押し付ける。根負けした患者は、受け取ったものをまじまじと見つめた。まるで生まれて初めて傘を目の当たりにしたかのような様子だ。
「──菜花、これは本当に傘なのか? 傘にしては随分と小さいようだが」
患者だけではない。摩緒も乙弥とともに側からじっとそれを覗き込んでいる。三人とも使い方がわからないらしい。折り畳み傘が現代の代物であることに、菜花はようやく思い至った。
「ちゃんと使えるよ。ほら、こうやって持ち手を伸ばして……」
手ずから折り畳み傘を開いてみせる。おお、と患者が歓声を上げた。黄色に花柄の傘をまるで子供のようにくるくる回しながら、娘が喜びそうだと嬉しそうに言う。
「娘さんがいるんですか?」
「はい。これがまた、人真似ばかりしたがる子でしてな」
妖怪にも家庭があるらしい。大事そうに傘をしまう患者を見つめながら、菜花は不思議と心温まるような気がした。いかに恐ろしい風体であろうと、その心は、人がわが子を想う親心と何ら変わりない。人であれ妖であれ、見た目だけでその心を判断することはできないものだと思わずにはいられない。そうして患者と打ち解け、なごやかに会話を交わす菜花の横顔を、摩緒が薬を調合するかたわら、穏やかな眼で見守っていた。
治療は滞りなく進んだ。摩緒は菜花が磨った朱墨に筆を浸し、患者の大きく突き出た腹部に「腹獄」という字を書いた。そして背を向けたかと思うと、窓に向かって同じ呪文を五回唱えた。すると、患者の腹に施された朱書きの文字が次第に薄れはじめ、みるみるうちに消えていった。菜花は何もできることがないので、ハンカチで患者の顔に浮かぶ汗を拭いたりしていた。ふと、乙弥が磨り潰した薬草を手で丸めているのが目に留まり、これ幸いとばかりに手伝いを申し出た。
「摩緒先生、随分と気の付くお嬢さんですな」
まだ身を横たえたまま、患者が口を開いた。摩緒はその腹部に触れて治療の効果を確かめている。
「ええ。色々と手伝ってもらっているんです」
「さいですか。看護婦見習いさんってことですかね。……それとも、摩緒先生の御寮人で?」
摩緒がかすかに笑った。
「縁あって、私の側にいるのです。なかなか頼もしい娘ですよ」
菜花は丸薬をこしらえるのに集中している体を装ってはいたが、内心では摩緒の自分に対する評価がすこぶる気に掛かっていた。頼もしい、と言われたらしいことが素直に嬉しかった。鼻歌交じりにできあがった丸薬を検分する。
「──ねえ、乙弥くん。ゴリョウニンって、なに?」
ふと、生じた疑問をこっそり尋ねてみた。乙弥は紙袋の口を広げて丸薬を入れながら、ちらと菜花を見上げた。
「奥さま、という意味ですよ」
折角丸めた薬が、菜花の手の中でべしゃりと潰れてしまった。
20.06.18