井の底の天


 すべては梅雨のせいなのだ。
 雨さえ降らなければ、枯れ井戸が水であふれることもなかった。いったい何が起きたのだろうと、井戸の底を覗いたりはしなかった。井戸に落ちたことが決して自分の落ち度ではないことを、かごめは弁明した。だから怒らないでほしいと、振り返りもせずに歩みを速めていく薄情な背中に向かって、懇願した。
「怒ってるように見えるかよ」
「だって、さっきから私を見もしないじゃない」
「……」
「心配かけたから、怒ってるんでしょ。ちゃんと謝るから、機嫌直してよ」
 雨に打たれて冷えているはずなのに、握りしめられた手首だけは火に触れたように熱い。そう簡単には解放してもらえそうになかった。かごめが仕方なしに謝罪の言葉を投げかけようとすると、彼はいきなり御神木の切り掛けの前で立ち止まった。広い背中に顔から体当たりしそうになるのを、振り向きざまに両袖の内へ掻き寄せられる。
「怒ってなんか、ねえ」
「──本当?」
 かごめはその胸に頬を押し付けて、ほっと息をついた。心細かったせいか、普段よりもその胸が広く逞しく感じられた。寒いだろ、ちょっと待て、と言い置いて犬夜叉が衣を諸肌もろはだ脱ぎにする。かごめは手を伸ばしてそれを静止した。
「火鼠の衣は?」
 答えぬまま、彼は脱いだ衣をかごめの頭に被せかけた。かごめは、御神木の葉陰でくっきりと陰影を描き出すその精悍な顔つきを見上げながら、
「言霊の念珠は?」
 二つ目の問いかけをした。
 犬夜叉は雨に濡れた前髪を掻き上げ、静かに金の瞳を伏せた。
「いつまでも外にいたら、風邪ひくぞ」
 彼に手を引かれるまま、見知らぬ小さな御社おやしろの中へ入った。御神木からさほど遠くないところに建てられている。いつの間にこんなものができていたのだろう。「奉納」と書かれた二本ののぼりが雨風にはたはたとなぶられていた。
「いいのかな、勝手に入っちゃって」
「気にすんな。おれの寝床だ」
 かごめは観音開きにした扉の外に袖の水をしぼって捨てながら、目の端で彼の横顔をとらえた。祭壇の前に片膝を立てて座る犬夜叉は、頬に雨水をしたたらせたまま、何かに取りつかれたようにじっと格子窓の外を眺めている。かごめが小首を傾げて扉の外の景色に目を移すと、入れ違いのように彼女の後姿へ静かな視線を向けてきた。そうとも知らないかごめは、しきりに外に片手を差し出して、雨の降り具合を確かめている。
「少し雨脚が弱まってきたみたい。今のうちに、手ぬぐいでも取ってこようかしら」
 ちらと振り返れば、さりげなく目線を動かした犬夜叉はまた窓の方を見つめている。是とも非とも言わないので、かごめはだったら好きなように行動しようと、なかばふてくされながら、生乾きの草履に足先を差し入れた。
 元来た道をたどり、御神木と枯れ井戸を横目に見送った。鳥居の下の階段をまっすぐに下りていく。雨で滑りやすくなっている石段を踏み外さないように、袴の裾を気にしながら一歩ずつ進めていく。すべて下りきって、ようやく村の景色に目が行った。
 はじめにかすかな違和感を覚えた。それは、彼女のよく知る風景よりも、心なしか家屋の数が多いことに起因していた。ここからの眺めはもっと見通しが良かったはずだが、なにやら家に囲まれ、視界がうんと狭められているような印象を受ける。どこかおかしいと頭の中で思いつつも、気のせいかもしれないと自分に言い聞かせながら、かごめは家路をいそいだ。雨降りのせいか、外を歩く村人はひとりとして見当たらない。静まり返った景色の中、板葺きを打つ雨の音だけがぱらぱらと小刻みにかごめの耳を打つ。
 夫婦の家は変わらぬ場所に建っていた。一目見ただけでは何らおかしな所はない。けれどかごめの胸の中には、とらえどころのないかすかなものだった違和感が、今やはっきりと形作られていた。その家が、つい先程、彼女が出てきたわが家とはまるで違っていることを感じずにはいられないのだった。屋根の葺き方、軒に吊るした野菜の干し方、軒下に積んである薪の割り方──どれをとってみても、かごめの身に馴染んだものとは微妙に食い違っている。
 囲炉裏の中に食べかけの芋粥が残っているだろうか。選り分ける途中でざるの中に置き去りにしたままの薬草は。中に入って確かめるべきだと思った。それでもひと押しの勇気が出ずに雨の中で立ち往生していた。やがて戸口に人の気配が立った。驚いたかごめは思わず後ずさり、住人が中から顔を覗かせる前に踵を返していた。
 引き返す途中、どこからかふらりと黒い人影が現れてかごめの行く手をふさいだ。編笠を目深に被り、錫杖を片手に握った法師だった。見知った袈裟姿に安堵したかごめは、まだ顔も見ぬうちについ「弥勒さま」と呼びかけていた。法師は斜に傾けた笠の陰からちらと片目を覗かせてかごめを見据えた。面差しがどことなく似ているが、明らかに別人である。よく見れば背も大分低く、まだ少年という年頃だった。
「美しい巫女さま。どうやらあなたと私には、浅からぬご縁があるようですね」
 にっこりと笑いかけてくるのを、「人違いだったわ」とかごめはやや強張った愛想笑いで受け流した。
 下りてきた階段をふたたび上っていく。中程まできた時、ふと顔を上げると、霧雨でけぶる鳥居の下に犬夜叉が立ってこちらを見下ろしている。迷子の子供が親を見つけたような安心感に、かごめは足腰から力が抜けそうになった。
 階段の途中まで犬夜叉は彼女を迎えにきた。事の顛末を知っているのか、口元の笑いを隠そうともしない。
「それで、手ぬぐいは取ってこなかったのか?」
「なくても大丈夫だもん」
 言っているそばから大きなくしゃみが出た。我ながら子供のようだとかごめは思った。どこから取ってきたのやら、犬夜叉が手ぬぐいを彼女の頭に被せ、ごしごしと髪の水気を拭いてやるようにする。やたらと面倒見が良く、世話を焼こうとするのが新鮮だった。
「だから、風邪ひくって言っただろ」
「犬夜叉、実家のじいちゃんみたい」
 思わずかごめが笑えば、じじいで悪かったな、と犬夜叉は少し口を曲げた。「……やっぱり老けたか?」などと気にしてひとりで顔を撫でたりしている。
 社に戻る途中、骨喰いの井戸に立ち寄った。雨が降り続いているせいだろう、井戸の中にはまだ水があふれんばかりに溜まっている。かごめは古びた井桁に座って、片手のひらに水をすくい落とした。井戸の底は深い闇に閉ざされている。
「しばらく引いてくれそうにないわね」
「三日もすれば、雨が上がるだろ。そうしたらきっとこの水も引く」
 犬夜叉は井戸に背を向けたまま言う。
「水が引いたら、すぐに帰るんだぞ」
 わかってるわよ、と井戸の中を覗きこみながらかごめは生返事をする。顎を深く引いたために、頭にかけていた手ぬぐいがはらりと落ちて、瞬く間に井戸水の奥底に沈んでいった。
 夜になると、かごめは寒気が止まらなくなった。犬夜叉の忠告を聞かずに雨の中を出歩いたことを心底後悔した。彼女が震えているのに気付いた犬夜叉は、赤子のように小さく丸まっているかごめの背中を背後から抱き締めた。振り向きざま、すぐ間近に彼の顔があったために、その唇と吐息がかごめの額をかすめた。妙に気恥ずかしくなり、犬夜叉を直視できなくなったかごめは目を伏せた。
 けれど犬夜叉にはそれが何らかのきっかけを与えたらしい。今度はかごめの頭の天辺に、偶然ではなく自発的に唇を落としてきた。そうして彼の肩口にかごめの横顔を休ませながら、かごめ、と喉元を震わす低い声で溜息か譫言のように呟く。名を呼ばれる度、かごめの項から背中にかけて、こそばゆいような焦ったいような甘い疼きがちりちりと駆けめぐる。かごめがじっと目を閉じてそれを感応している間、犬夜叉はかごめの後ろ頭から項にかけてのなだらかな曲線をあやすように撫でていた。かごめは体の震えが次第におさまっていくのを感じた。けれどそれは息苦しいほどの胸の高鳴りという、決して安からぬ代償をともなった。
「私なんか、早く帰ればいいと思ってるんでしょ」
 素っ気ない犬夜叉にそんな嫌味のひとつも言ってやろうかと思っていたかごめだったが、彼から与えられているのは薄情からはかけ離れた抱擁だった。ほんの小さな心のささくれなど、大いなる愛情に包み込まれてすっかり無いものとなってしまった。


 夜通し降り続いた雨は、朝を迎えてもなお去る気配がない。社の中が湿気でこもらぬよう、かごめは扉を半分開けておくことにした。ふと階段のところに昨夜はなかったものが置かれてあるのを見つけた。雨避けと思しき菅笠すげがさを縁からそっと持ち上げてみれば、竹筒とほおの葉で包んだ握り飯が出てくる。
「誰かがこんなに朝早くからお参りに来たみたい」
 犬夜叉に見せると、彼は訳知り顔で少し笑って首を横に振った。
「おまえの朝飯だ。食え」
「えっ? でも、お供え物なんじゃ」
「あのガキが気を利かせたんだ。病み上がりだろ、ちゃんと食っとけ」
 昨日会った法師の少年を脳裏に思い浮かべながら、かごめは扉の外にその痕跡を探している。だが雨が跡形もなくかき消したのか、足跡さえ見当たらなかった。
「お礼を言わなくちゃ」
「いや。あいつ、またしばらく村には帰らねえだろうよ。ああやって時々ふらっと修行に出るんだ。親の気も知らねえで」
 犬夜叉の語り口は落ち着いていた。年月を経た古木が高みから万物の営みを見守るかのごとく、少年法師の見えない背を見送る眼差しは穏やかだ。
 小降りになってきたのを見計らい、沢へ下りた。見知った村とは違っていても、自然だけは変わらぬ姿をとどめている。鬱蒼と茂る木々が雨避けとなり、水面には時折、わずかな水滴が頭上の葉末からぽつぽつとしたたり落ちるばかり。かごめは水の一際深いところに潜り、身を清めた。頭の中が冴え渡るようだった。衣を着ると、岩場に腰かけてしばらく思案にふけった。傍らには犬夜叉が片膝に頬杖をついた格好で寛いでいる。かごめの肘がその脇腹を小突いた。
「ちょっと。当たり前みたいに覗いてたでしょ」
「覗いてねえ。見てただけだ」
「悪びれもないのね。堂々と見てるなんて、こっそり覗くよりもっとたちが悪いじゃない」
「裸見られたくらいで、今更文句つけるのかよ」
 かごめは耳の先を赤くした。余裕を見せつけられているようで癪に障る。
「……そんなこと言うなら、もう見せてあげない」
「怒ったのか?」
 菅笠を被り、かごめは唇をとがらせたまま歩きだした。
 途中、ぬかるむ道の両脇に紫陽花が群れをなして咲きこぼれていた。人の心にたちこめる梅雨の物憂さを晴らしてみせるかのごとく、陰気な雨の中に点々と冴えた色彩を滲ませている。青いがくに顔を寄せてみれば、みずみずしい雨露を乗せたままかすかに震えている。犬夜叉はそのうちの一輪を摘み取り、かごめの手に握らせた。安易なご機嫌取りの手管だとわかっていながら、帰路をゆくかごめの頬は緩みがちだった。
 祭壇の花瓶に紫陽花を活け、かごめはしばし午睡をとった。傾いた花からしたたり落ちた雨露がちょうど目蓋の上で小さく跳ねた時、浅い眠りから呼び覚まされた。起きがけに扉が開いて頭をかがめながら犬夜叉が入ってきた。彼の肩越しで遠い子守歌のように聞こえていた雨の音がいつの間にかやんでいた。
「井戸の水がもう半分くらいまで引いてた」
 そうなの、とかごめは言った。目を擦った拍子に紫陽花からこぼれた雫が眦から頬を伝った。それを犬夜叉は涙が流れ落ちたと錯覚したらしい。
「怖い夢でも見たのか?」
「ううん」
 でも抱き締めて、と両腕を広げてかごめはねだった。
 夜になると犬夜叉はまた用があるといって外へ出て行った。が、すぐに帰ってきた。おかえりと言ったきり、かごめは何も訊かなかった。どうせ井戸を見てきたのだろうと思った。けれど井戸の話題は彼の口から出てこなかった。代わりに心なしかそわそわした様子で、ちょっと目を閉じてろ、と注文をつけてくる。いささか拍子抜けしつつ、かごめは言われた通りにした。犬夜叉がふっと息を吹きかけて手燭の火を消すのがわかった。もういいぞ、と彼女の肩に手が触れてきた。いったいこの短時間で何を拵えたのだろう。両目を覆っていた指の隙間をゆっくり広げていくと、川辺の草の根を掻き分けたように、闇の中を無数の光の玉が縦横無尽に飛んでいるのが見えた。かごめの口から子供のような歓声が上がった。犬夜叉はこの狭い社の中に、夜空を創り出していた。
 犬夜叉にならい、かごめは仰向けになってその光景を堪能した。天井に張りついた蛍が星のように瞬いている。光の尾を引いて飛び回る姿は、まるで流れ星だ。ちらちらと閃光を放つさまは、燃えさしになる直前の線香花火にも似ていた。手を伸ばしてひとつ捕まえてみようとするかごめだったが、動きが素早くて手の内におさまらない。躍起になっているのを犬夜叉が優しい眼をして眺めていた。かごめは蛍を諦めてその瞳をじっと覗き込んだ。
「ねえ、犬夜叉……」
 訊いてみたいことは星の数ほどもあった。いつから独りなのか。なぜあの家に暮らさないのか。あの家には今誰が住んでいるのか。あの法師の少年は誰なのか。──けれどじきに去る人であるかごめにとって、それらを知ることにさして意味はないような気がした。むしろ知らぬまま去る方が、美しい夢物語として永遠に胸の内に秘めておけるように思われた。
 犬夜叉は腕枕にかごめの頭を乗せた。もう寝ろよ、とやはり幼子に言い聞かせるような口ぶりだ。
「まだもう少しだけ見ていたいわ」
「……おれの顔がそんなに面白いかよ?」
「そんなの、お互い様じゃない。あんただって私を見てる」
「おれは寝なくたって平気だからな。でもおまえは、やっぱりもう寝なきゃ駄目だ」
 蛍が輝き続ける限り、夜通しそうして語り合っていたいと思うかごめだった。けれどその望みが淡く儚いことを知っていた。彼女の目に映る星満天を犬夜叉の大きな手が覆い隠してしまう。
「ありがとな、かごめ」
 何に対しての感謝なのか、かごめにはよくわからなかった。訊き返そうとしたが、まだ起きていたのかと言われそうで、結局聞こえなかったふりをするほかなかった。


 雨はとうに上がっていた。雲の切れ間から、淡い朝の光が仙境の滝のように流れ落ちている。梅雨も終わりに近いのだろう。骨喰いの井戸の縁に手を置いたまま、かごめは今一度辺りを見渡してみる。見慣れた自然に囲まれていた。早く無事を知らせなければならない人がいる。それでも井戸を離れがたいのは、別れを言えぬまま帰ってきたことが心残りだからだ。井戸に飛び込む寸前までどこかで彼が見守ってくれていたような気がした。だが慎重に気配を消していたらしく、その居場所はついにわからずじまいだった。
 井戸水はすでに跡形もなく消えてなくなっていた。妖怪の骨さえ喰らう古井戸なのだから、雨水などどこかへすっかり飲み下してしまったのだろう。あの社もきっともうどこにもない。いや、まだどこにもないのだ。かごめの体験が現実に起きた出来事であることを証明できるものは、今や彼女の持つ記憶と、名残惜しさのあまり祭壇の花瓶から引き抜いてきた、たった一輪の紫陽花のみ。
 深い井戸の奥底を覗き込みながら、かごめはその中に落ちた時のことを思い出している。
 井戸の中に、雨水が並々と溜まっているのに驚いた。現代との往来が途絶えたとはいえ、かつて彼女が生きた場所と今の人生とをつないでくれた大切な井戸である。このまま壊れてしまいはしないかと心配になり、井戸の底を覗き込んだ。そこに美しい夜空が見えた。見間違いかと目を擦ってみたが、確かに夜空が水の底に沈んでいる。かごめはその眺めに心を奪われた。閉ざされたはずの道が、今一度どこかへ通じたのだと理解した。手を伸ばした瞬間、強い力に引き込まれるようにしてかごめは井戸の中に落ちていた。
 ──あの時、夜空に星が瞬いていると思った。今にして振り返ってみれば、それは蛍の光か、あるいは彼女を見つめる、あの瞳だったのかもしれない。
「あんたが、私を呼んだのね? 私があんたを呼んだみたいに」
 かごめは紫陽花を胸に抱いた。井戸の底からの返事はない。代わりにどこかでかごめの名を呼ぶ声がした。振り向きざま、彼女の目によく馴染んだ赤い衣が、梅雨晴れの空にひるがえるのが見えた。
 


20.06.05

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