澪標



 西から東への帰路は、く時にたがわぬ長閑さだった。入梅前の底抜けに澄んだ晴天を慕うように、野には咲き初めの初夏の花が、山にはみずみずしい若葉が青々と生い茂っている。
「歩いてたら暑くなってきちゃった」
 手うちわをして笑うかごめの首筋が、木漏れ日の下でつややかだった。たまらずに、汗で後ろ首に張りつく髪を結い上げようとする彼女だったが、ふと眉をひそめて、「──ちょっと、冥加じいちゃんっ。お願いだから今はやめてよね」
 ノミ妖怪に虎視眈々と狙われていたことを察知したらしい。手のひらでぐいと首筋を拭う仕草をした。絶好の食事時を逃した冥加は、しっしっと害虫のようにかごめに追い払われながら、無念の声を上げる。
「わしはただ、犬夜叉さまのお母上の血が懐かしゅうて……」
「やかましい。てめえはただ血に飢えてるだけだろうが」
 節操もなく犬夜叉の首筋にぴたりとくっついてきたのを、彼は容赦なく爪の先ではじき飛ばす。「ったく。おふくろが見たら、きっと呆れるぞ」
 それが呼び水となり、連れ立つ二人と一匹の心はたちまち懐かしい人の昔話に満たされた。犬夜叉が振り返る母の思い出は、つい今しがた肩をかすめて過ぎ去っていったばかりの春風のように、優しい残り香を永遠にとどめていた。時折、冥加が幼き日の犬夜叉の失敗や母を困らせた恥ずかしい話などをして、腹いせに彼の親指でぐりぐりと押しつぶされたりした。


 太陽の傾き始めた頃、風の流れが急変した。
 目配せで示し合わせたように、犬夜叉は鉄砕牙の反りを打ち、かごめは筒から矢を引き抜いた。辺りに漂い始めた妖気はしだいに禍々しさを増していく。彼らを逃すまいと四方を取り囲み、周辺の草木をことごとく枯らした。
「気をつけろ、かごめ。──毒の臭いがしやがる」
 犬夜叉は火鼠の衣を脱ぎ、かごめに頭から被らせた。彼の身を案じたかごめはしきりにそれを返したがったが、彼が断固としてそうさせなかった。
「じゃあ、せめて一緒に戦わせて。あんたを矢面に立たせて、ただ隠れてるだけなんていやよ」
 これも彼は即座に拒絶した。けれどかごめが折れてくれそうにもないので、やむなく互いに譲歩する形となる。
 やがて、何かが地面を這いずり回るような音が前方から聞こえてきた。犬夜叉は迷わず鉄砕牙を抜き、声高らかに「風の傷」を繰り出した。その威力で岩や枯れ木が吹き飛んだが、敵を仕留めた手ごたえはなかった。
 風に巻き上げられた土埃が霧散するにつれ、敵の異様な姿があらわになってきた。とぐろを巻いた姿で犬夜叉を見下ろすそれは、てらてらと光る瑠璃地の鱗に黒のまだら模様をつけ、首先にざんばら髪の人間の頭を据えた、巨大な蛇だった。目を糸のように細くして、薄い唇から長い舌をちらつかせながら、まるでれ戸から風の音が細くもれ聞こえてくるかのような奇妙な笑い声を発している。
「あ……あれは、三歩蛇さんほだですじゃ! 強力な妖毒をもつという、蛇の妖──」
 犬夜叉の肩の上で、身の危険を感じたらしい冥加がしきりに飛びはねた。蛇の口から長い舌が伸びてくるのを敏捷によけながら、犬夜叉は片頬をゆがめて笑う。
「蛇妖怪か! どうりでさっきから蛇臭えわけだぜ」
 跳んだはずみで鉄砕牙を振り上げ、蛇の青い舌を真っ二つに分断した。けたたましい叫び声を発しながら、蛇の巨体が裂けた地面の上をのたうち回る。斬り落とされた舌もまだ感覚が残っているのか、蜥蜴の尾のようにびくびくと痙攣していた。
「図体のでけえやつは、大体動きがとろいんでい」
 とどめを刺そうと犬夜叉が二度目の「風の傷」を振り切った瞬間、痛みに蠢いていたはずの三歩蛇が地面からさっと鎌首をもたげた。青い蛇腹は「風の傷」を真っ向から受けとめる。犬夜叉は小さく舌打ちした。鋼のごとく頑強な蛇腹に、鉄砕牙の風圧はあえなく競り負けたとみえ、敵の体に傷一つ残さぬまま消滅した。
 すかさず犬夜叉は次の一手を繰り出した。鉄砕牙の刀身に金剛石をまとわせ、風では倒せぬ強固な巨体に「金剛槍破」を撃ち込んだ。三歩蛇はこれにも立ち向かった。金剛の礫はことごとく打ち砕かれ、きらきらと透き通った輝きを放ちながら海辺の砂のように地面に散らばった。
「──犬夜叉、加勢するわ!」
 蛇の引き目が声の主をとらえた時、その片目に破魔の矢が深々と突き刺さった。けたたましい悲鳴が上がる。犬夜叉がはっと目を向けると、火鼠の衣を被ったかごめはただ一点を見据え、すでに次の矢を放つ姿勢だった。
「体を攻撃してもだめなら、頭を狙うしかないわ」
 言い終わらぬうちに弓の弦が鳴った。三歩蛇は苦痛に身を捩りながらも難を逃れようとしたが、一度的を定めたが最後、外れ知らずのかごめの矢は、彼女の狙い通りに妖の額の真ん中を射抜いた。断末魔の叫びが大地をつんざいた。矢尻に貫かれた蛇の額から顔の中心にかけて、縦に亀裂が入ったかと思うと、まるで脱皮そのもののように人間の顔の皮はぼろぼろと剥がれ落ちていく。
 かごめの助太刀に活路を見出した犬夜叉は、再び鉄砕牙を構えた。弱り切った敵の妖穴は、今や無防備にさらけ出されている。足の裏で地面を蹴るや、彼は大きく刀を振りかぶった。竜鱗を帯びた切先が、三歩蛇の妖穴に深く斬り込んだ瞬間、その巨体は操り手を失った傀儡のように轟音を立てながら地面へくずおれた。
「よし──!」
 犬夜叉は会心の笑みを浮かべる。手応えのある敵と一戦を交えるのは久方ぶりだった。だが、勝利を噛みしめながら鉄砕牙を鞘へ収めようとした瞬間、「──犬夜叉!」とかごめが警告を発したのが聞こえた。
「犬夜叉、伏せて!」
 反射的に彼は声のした方向を振り返った。何か赤いものが宙を舞うのが視界の端に見て取れた。かごめが放り投げた火鼠の衣だ──理解したと同時に、それは諸袖もろそでを広げてはらりと犬夜叉の頭に覆い被さってくる。
「──かごめ!」
 視界を遮られた、ほんの瞬きの間の出来事だった。
 かごめの悲鳴が聞こえた。犬夜叉は火鼠の衣を打ち捨て、かごめの元へ駆け出した。三歩蛇の長い尾に絡め取られたかごめは、身動きがとれなかった。斬り落とされた蛇の青い舌が、彼女の胸に深く突き刺さっている──。
「かごめ、かごめ、かごめっ!!」
 犬夜叉は頭の中が真っ白になった。訳の分からぬまま爪で蛇の舌を切り裂いた。蛇の巨体をなます斬りにし、無我夢中でかごめを引きずり出した。何かに憑かれたように繰り返しその名を呼ぶ犬夜叉だが、かごめは目を閉じたまま、睫毛の一本さえ動かさない。白い胸元がみるみるうちに青黒く染まっていく。
「揺り動かしてはならん、犬夜叉さま! 三歩蛇の毒は、触れれば三歩歩くまでの間に死に至らしめるという猛毒なのですじゃ! 一刻も早く、かごめを薬老毒仙の元へ──解毒の手立てがあるやもしれぬ!」
 冥加に急き立てられるがまま、犬夜叉はかごめを抱き上げてふらりと歩き出した。否、駆け出したはずだった。走らなければならないことを理解していた。だが、魂をどこかへ置き忘れてきたように、体に力が入らない。とりわけ片腕が言うことをきかなかった。三歩蛇を切り裂いた右手が妖毒で青黒く腫れ上がっていた。痛みは感じなかったが、かごめの苦しみを思うと、魂を千々に引き裂かれるよりも耐えがたかった。
 ふと、毒を吸い出せば助かるのではないか──そんな思いつきに取り憑かれた犬夜叉は、かごめの胸元に顔を寄せようとした。冥加がそれを死に物狂いで食い止めるも、断固として延命を試みようとする。言葉が届かぬことを悟った冥加は、決死の覚悟でかごめの傷口に自らの口針を突き立てた。瞬間、妖毒が冥加の針を溶かした。指先に乗るほど小さい冥加の体が、みるみるうちに毒の障りで青黒く膨張していく。
「……ご覧くだされ! 今、犬夜叉さまがお倒れになれば、誰がかごめを薬老毒仙の元へ連れて行くのです? 早う解毒をせねば、かごめは間違いなく手遅れとなりますぞ──!」
 涙ながらの冥加の訴えに、犬夜叉はようやく正気を取り戻した。かごめの顔は蓮の花のように青白く、その体は段々と冷たくなっていくようだった。恐ろしい現実を振り切るように、がむしゃらに駆け出した。
 あまりの形相に、人喰い鬼が死体を抱えて山から降りてきたかと勘違いした里人たちが、ほうほうの体で逃げ出していった。犬夜叉は彼らには目もくれず、また気が付きさえしなかった。たとえ天地がひっくり返ろうと、彼の瞳は、まばたきの瞬間さえ惜しんでかごめの命の灯火だけを見つめていただろう。


 酒の滝が飛沫を上げ、岩に割かれながら、轟音とともに滝壺へと流れ落ちていく。滝壺には無数の酒甕を並べてあり、うわずみの酒精が発酵したように、周囲にはうっすらと靄がかかっている。山奥の仙境に迷い込んだかのようなその地こそ、薬老毒仙の住処だった。
 薬老毒仙は客人の訪問を予感していたらしい。以前のように甕の中で泥酔などしてはおらず、素面の厳めしい表情で犬夜叉たちを出迎えた。
「蛇の妖毒にあてられたのかい」
 かごめを見るや、即座に禍いの元凶を言い当てる。傷口を舌で舐めるが、すぐさま舌先についた毒を地面に吐き出した。
「いかんな、これは……。三歩蛇の毒か」
 犬夜叉はその長い白髭を引っつかみ、自分へ近寄せた。
「かごめを治せ。どんなことをしてでも、治せ」
「──おまえさんらも毒に触れたな?」
 薬老毒仙は髭をつかむ犬夜叉の青黒く腫れ上がった右手を、それから脂汗をかいて彼らの足元に転がっている冥加を一瞥する。
「無茶しやがって。三歩蛇の妖毒はなあ、体内に入っちまえば、酒や薬なんぞでは解毒のしようがねえんだぜ」
 犬夜叉の両眼が丸く見開かれた。全身から力が抜け落ちていくような絶望に見舞われた。だが、頭だけはかろうじて薬老毒仙の言葉じりをとらえていた。息苦しさを覚えながら、相手に詰め寄る。
「……つまり、おまえの酒と薬は効かねえが、他に手立てがある──ってことだろ」
「……」
「──さっさと答えやがれっ!!」
 薬老毒仙は、無言のまま杖先で犬夜叉をぐいと遠ざけた。それから矢庭に腕を伸ばし、滝壺から一つの大甕を取り寄せた。
「あることには、あるさ。──まあ、あんまり勧められたもんじゃねえけどな。おまえさんのためにも、その娘さんのためにも……」
「何だってする。どんな方法でもいい。かごめが助かるなら、どうなっても構わねえ!」
 血を吐くような犬夜叉の叫びに、薬老毒仙は眉間へ終始深い皺を刻みながらも、心動かされたようであった。杖を振り上げ、石突きを甕の中の酒に浸す。汲みたての岩水のように澄んでいた甕の中身は、杖が引き上げられた時、底の見えないどす黒い薬酒に代わっていた。
「三歩蛇の妖毒ってのはな──」
 薬老毒仙の嗄れ声が、甕の中に幾重かの波紋を生み出した。
「たちが悪いんだ。本体を倒そうが、消えやしねえのさ。毒を注ぎ込まれた者が死ぬか、あるいは、別の体にその毒をうつすまでは……」
 みなまで聞いた犬夜叉の瞳に、突如として光が宿った。奈落の底へ沈んでいた心が、ようやく見えたかすかな期待に浮かれ立つ。安堵のあまり思わず腰が抜けそうになりながら、犬夜叉は念を押した。
「毒をうつせば、かごめは助かるんだな? 本当に、本当に助かるんだな?」
「……ああ。それが、三歩蛇の毒の特性だからな」
「だったら、早くかごめの毒をおれにうつせ! そうすれば、かごめは──」
「──いかん、犬夜叉さま!」
 水を差したのは、虫の息となっている冥加だった。薬老毒仙は懐中から|盃《さかずき》を取り出した。甕の中の黒々とした薬酒を掬い取り、その中へ冥加をつまみ入れようとする。だが、当の本人はひしと犬夜叉の足首にしがみつき、命懸けの忠言をやめようとしない。
「かごめの気持ちはどうなります? かごめがこのことを知れば、後でひどく己を責めましょう。犬夜叉さまのお命を犠牲にして助かったところで、それを手放しに喜べるような娘ではありますまい。……かごめのためにも、犬夜叉さまご自身のためにも、どうかさようなご無体はおやめくだされ!」
 犬夜叉は耳を塞ぎたくなった。的を射ているだけに、それはひどく心に突き刺さる忠告だった。だが何を言われようと、決して意志は曲げないつもりだった。
「冥加じじい、おまえにわかってくれとは言わねえ。かごめを泣かせるかもしれねえってことは、よくわかってるんだ。それでもおれはやるぜ。──かごめの命を救うためなら、おれは鬼にだってなれる」
 冥加がわっと泣きついてきた。犬夜叉さま、犬夜叉さま、と愛着をこめて彼の名を呼ぶ。
 犬夜叉の瞳は、祈りをこめるように、固く閉ざされたかごめの目蓋を一心に見つめていた。


 甕の中にかごめの体をそっと放す。まるで古代の埋葬を真似るかのようで、犬夜叉はどうにもやりきれない思いだったが、彼女を助けるためには致し方ない。それでも気がかりで、甕の縁にしがみつきながらじっと見守った。底なし沼に飲まれていくように、みるみるうちにかごめは甕の奥底へと沈んでいく。
「冥加は元々血を吸う妖怪だからな。ちいとばかしの毒が入ったところで死にやせんが──犬夜叉。半妖のおまえが体内に三歩蛇の毒を取り込めば、きっとただでは済まねえぞ」
 薬老毒仙が、おいおいと泣き続ける冥加にあの盃の薬酒を頭から浴びせかけると、彼はばったりと倒れて動かなくなった。どうやら眠っているらしい。皺だらけの指先がその小さな体をつまみあげ、空になった盃の中に転がしてやる。
 犬夜叉は声をかけられたことに気付いてさえいなかった。甕の中に頭を突き入れんばかりにして、かごめの様子をうかがっている。
「まだなのか? もう、行ってもいいんじゃねえのか」
「うん。そろそろ頃合いだな」
 すかさず甕の中に飛び込もうとするのを、待て、と薬老毒仙は杖先で制した。
「本当にどうなるかわからんぞ。毒で目も当てられねえ姿になるか、はたまた外見ではわからんでも、じわじわ毒が回ってぽっくり早死にしちまうか──。おまえさん、それでも後悔しねえかい。あの娘のために、本気でその身を捧げられるかい」
「ああ」
 うなずく犬夜叉の瞳には、一点の迷いもなかった。
「行ってくるぜ。かごめのところに」
 もはや引き留める者はいない。はやる心のまま、犬夜叉はひと思いに甕の中へ飛び込んだ。
 薬酒はひやりと冷たく、一寸先も見えないほど黒々と濁っている。犬夜叉はじっと息を凝らし、体が甕の奥底に向かって沈むがままにまかせた。かごめはどこにいるだろう。手を伸ばした瞬間、指先が生身の体をかすめたのがわかった。
「かごめ!」
 触れているのはかごめの手だった。犬夜叉は気も狂わんばかりになって彼女をたぐり寄せた。目の前は暗いままで何も見えない。かごめの姿は彼の瞳にこそ映らぬものの、胸にかき抱いた感触は確かなものだった。
「かごめ、もう大丈夫だ。おれがここにいる。もう二度と、おまえに苦しい思いなんかさせねえからな」
 犬夜叉の青黒く腫れた右手が、かごめの胸元に添えられた。触れた瞬間、妖毒を注ぎ込まれた傷口から、何かが彼に向かってさかしまに流れてくるのを、犬夜叉は肌身で感じ取った。触れ続けていると、しだいに右手の感覚が麻痺してきた。無数の蛇が彼の血管を通って腕を這い上がってくるような錯覚にとらわれた。それでも彼は決してかごめの傷口から手を離さなかった。むしろいっそう近く、何にも間に割り込ませまいというようにぴたりと彼女へ体を寄せる。
「──まだだ、かごめ。まだまだ足りねえ。全部おれにうつすまで、絶対離さねえからな」
 彼女の胸に手を当てたまま、犬夜叉はそっと目を閉じた。不思議と、目蓋が開いている時よりもはっきりかごめの顔が見えるような気がした。妖毒に体内を侵されていようと、安らかに眠るその面差しには、一点の汚れさえ見当たらない。清らかな寝顔を愛おしみ、犬夜叉はいつまでも少女のようなその唇に口づけをした。それだけであらゆる恐怖や苦痛が浄められ、解き放たれ、心は明るく澄み渡っていくようだった。


 あれから何日かが過ぎたことを犬夜叉は予感したが、実際には一月もの時が経過していたらしい。
 甕から出てきた二人は、そのまま深い眠りに落ちたという。先に意識を取り戻したのは犬夜叉だった。次いでかごめが目を覚ました。解毒について気取られぬよう、つとめて平静を装わねばならないと頭で理解していながらも、両眼から涙がぽろぽろとこぼれ落ちるのを犬夜叉は止めることができなかった。
「──さっき、水浴びしたばかりなんでいっ」
 そう言って苦しまぎれにごまかしたが、目にいっぱいの涙を溜めたかごめが彼の首筋にひしと抱きついてくると、幼子のように二人で泣き明かさずにはいられなかった。
 かごめの胸元の傷は、跡形もなく消え去っていた。幸いあの日の記憶が曖昧になっているらしく、蛇の妖毒によって生死の境をさまよったことは、どうやら覚えていないようだった。ただ、犬夜叉の右腕が晒でぐるぐる巻きになっているのを、彼女はしきりに気にした。手ずから治療したがったが、犬夜叉はやんわりと拒んだ。すぐに治るから心配するな、と同じ口上を何度も繰り返すので、かごめもそのうち傷を見せてほしいとは言わなくなった。


 楓の村に帰還した後も、犬夜叉は右腕の晒を取らなかった。長い眠りから目覚めた時、その腕に妖毒の障りがくっきりと刻み込まれていたからだった。青い鱗にまだら模様の皮膚は、まぎれもなくあの三歩蛇の名残そのものだった。彼はそれをかごめの目には決して触れさせたくなかった。だから晒を巻くことによって、みずから封印を施したのだった。
 毒を体内に取り込んで以降、犬夜叉は体力の衰えを感じるようになっていた。心なしか傷の治りも遅くなった。誰にも気取られないように振る舞っていたつもりだったが、ともに戦う機会の多い弥勒には隠しきれなかったらしい。やはりおまえはこれがなければ調子が出ないのだろう、そう言ってある日、あの戦場に置き去りにしたはずの火鼠の衣を差し出してきた。どうやって見つけた、と目を丸める犬夜叉に、法力で探し当てたのだ、と何でもないことのように笑ってみせた。
 久しぶりに火鼠の衣に袖を通すと、かごめが嬉しそうに手をたたいた。まるで懐かしい友人と再会したかのような微笑ましい反応に、犬夜叉も思わず口もとをほころばせる。
「やっと、犬夜叉が帰ってきたような気がするわ。もう手放しちゃだめよ?」
「わかってる。こいつがないと、なにかと不便だしな」
 着替えを手伝っていたかごめが、彼の胴にそっと抱きついてきた。おかえりなさい、と呟いている。犬夜叉は、卵を手のひらで包むようにその体を抱きしめ返しながら、火鼠の衣を山中へ置き去りにしたあの日を思い返していた。
 三歩蛇を仕留めたあの時、彼がほんの一瞬油断してさえいなければ、かごめが頭に被っていた火鼠の衣を投げてよこすこともなかった。あるいは、そもそも母の墓参りにかごめを連れて行かなければ、あの山道を通ることもなかったはずだ。もっと遡れば、二人がこの村で祝言を挙げず、夫婦の契りを結んでいなければ、犬夜叉の母がかごめの義母となることもなかっただろう。
 けれど、二人がともに生きることは運命だったのだから、それによって生じる結果は何もかも必然ということになる。──初めから手に入れていなければ、失うこともない。それでも、かごめのいない今を思い描くことなど、犬夜叉にはできそうもない。
「──震えてる。寒いの? 犬夜叉」
 犬夜叉は首を振って否定した。が、すぐに思い直して、寒さのせいにすることにした。「さっき、水浴びしたせいだろ。あの川の水が冷てえから……」
 かごめがじっと彼の瞳を見上げている。心の奥底を見透かされることを恐れ、犬夜叉は彼女の項に手を添えて、自分の方へいざなった。
 あの日は初夏の晴天だった。二人が眠っている間に一月が経ち、気がつけば季節は梅雨に移り変わっている。火鼠の衣は手元に戻ってきた。それでもなお、犬夜叉の心はあの日の中へ置き去りにされたままのように、時の流れに追いつくことができずにいる。


 そのまま永遠に立ち往生しているかのように思われたが、心というものは正直なもので、どうにかして前へ前へ進もうとするのだった。
 かごめの側にいながら、犬夜叉はそのあたたかな笑顔に心弾まずにはいられなかった。かごめに名を呼ばれるたび、彼女が、そして彼自身が生きている喜びを噛みしめた。曇りがちだった表情に、かごめという光が柔らかく差し込んでいた。
 かごめと心通わせ、犬夜叉の胸が幸福で満たされた時、雨の音はとうに遠ざかっていた。彼方かなたで蝉が鳴き始めたかと思うと、此方こなたの薄野原にはもう赤蜻蛉が飛んでいた。ちらほらと鼻先に舞い降りた初雪は、いつしか桜の花びらに変わる。花吹雪の散る青空を眺めているうちに、山の峰から大きな入道雲がもくもくと立ち昇ってくる。
 明日この命が尽きても後悔することのないよう、心のままに犬夜叉は生きていた。嬉しいことは素直に喜び、楽しいことは存分に楽しんだ。彼が心の底から今を謳歌する時、隣にはいつもかごめがいた。いつか残してゆかなければならない愛しい妻に、この瞬間を心の奥底で永遠に覚えていてほしい、と彼は切に願った。


「赤ちゃんができたみたいなの」
 何度目かの初夏、かごめが犬夜叉の手を腹へ導いて、告白した。「犬夜叉がお父さんになるのよ」
 犬夜叉は天を仰いだ。いつかのように、梅雨入り前の青空は底抜けに澄み渡っていた。野には咲き初めの初夏の花が、山にはみずみずしい若葉が青々と生い茂っている。
「嬉しい?」
 目の前には小さな川が流れていた。犬夜叉の瞳からあふれて顎へ伝い落ちた熱い涙が、きらきらと輝きながら、涼やかな浅瀬の流れに吸い込まれていった。水面に涙の弾ける音を聞いたかごめは、ふと微笑んだ。犬夜叉の顎と頭を両手で包み、赤子を抱き寄せるように自分の懐へとかき抱く。
「動いてるでしょう。私の心臓」
 犬夜叉は目を閉じて、その音に聞き入った。それは呼吸をするたびに速まっていくようだった。なぜだろう、彼も何やら予感めいたものを覚え、にわかに鼓動が高鳴り始める。
「犬夜叉が助けてくれたから、私の心臓は動いてるのよ」
 犬夜叉は頭を上げた。かごめの両手が、彼の右腕をとらえた。晒越しに愛おしむようにそっと頬擦りしてくる。息苦しさを覚えながら、彼は呻いた。
「……知っていたのか?」
「忘れてなんか、なかったわ」
 かごめが右腕の晒を取ろうとするのを、犬夜叉は拒もうとした。──だが、かごめの眼差しはどこまでも穏やかで、振り切ることなどできそうもない。
「ちゃんと見て」
「……気持ちのいいもんじゃねえぞ。あれから、一度も取ってねえんだ」
「そんなことないわ。よく、見て」
 犬夜叉は恐れをなしたように、顔を背けた。かごめが晒をゆっくりと巻き取っていくのがわかった。久方ぶりに外の空気に触れた右腕。かごめにうながされ、覚悟を決めた犬夜叉は直視できずにいた運命に向き直った。
 ──そこにあるのは、奇妙な怪物の腕などではなかった。青い鱗も、まだら模様も、血管から蛇が這い上がってくるような不快感も、妖毒の痕跡は何一つとして残されていなかった。左腕と同じように、ただ彼の生まれもった右腕が肩から伸びているだけだった。そこには避けようのない死の運命など、刻まれてはいない。
 犬夜叉は震える右手でかごめの頬に触れた。そうしてもよいのだと悟ると、今度は遠慮がちに、まだ肉づきの薄い彼女の腹部へ手のひらを添えた。──まるで、大きな甕の底に、この世に二つとない宝物のきらめきを見出したように、彼の瞳がにわかに輝き出す。
「──……動いた」
「……え? まさか、まだわからないわよ」
 気が早いわね、とかごめが鼻をすすりながら笑う。「でも、もしかしたらお父さんに挨拶したかったのかしら」
 犬夜叉は、まだ見ぬ小さな命へ心を寄せたた。清らかな川の水の中から、一匹の魚が力強く飛び跳ねるのを聞いた瞬間、彼の頬に玉のような水飛沫と、確かな命の息吹が感じられた。





20.05.31

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