ダルマ サンガ コロンダ



 薬屋まで、と告げると、車夫が威勢のよい返事をした。風が彼の前髪を額の上に二、三筋かき散らした。絵巻物のように流れていく景色を、摩緒は横目で追いかけた。
「菜花さん、人力車は初めてですか?」
「うんっ。浅草で何回も見たことあるけど、乗るのは初めてだよ」
「乗り心地はどうですか?」
「風がすごく気持ちいいね。ただ、ちょっと狭いけど……」
 隣ではこうしたやりとりが交わされていた。普段は乙弥と二人で乗る座席を今日は三人で占めているので、確かにやや窮屈ではある。二人の方へちらと目を遣ると、菜花が座高の低い乙弥の頭を帽子の上から撫でながら、向こう側の田園風景を眺めていた。
「でも、車より解放感があっていいよ」
「車……というと、自動車ですか?」
「うん。大正こっちにもあるんだっけ?」
「ええ。乗合自動車なら、手前も乗ったことがあります」
 人力車には一度も乗ったことがないのに、自動車には乗り慣れているかのような口ぶりだった。摩緒は脇に置いた鞄に片肘をもたれかけ、再び自分側の眺望に目を向けた。彼女の世界では自動車それが日常なのかもしれない。
 大地震は、彼の目の行き届く限り、あらゆる場所に深々とその爪痕を残していた。家屋が崩れて瓦礫となり、住民たちはその後始末に追われていた。ひび割れて泥水に浸食された田畑を、農具をふるい、懸命に蘇らせようとする人々もいる。数百年に及ぶさすらいの間、彼は何度も天災に遭遇してきたが、その度にこうした人間の生命力の逞しさを目の当たりにしてきた。
「あそこにも人が集まってる。避難所かな?」
 菜花が指差した先には、白い幔幕が四方にめぐらしてあった。風にひるがえる白旗に赤十字の紋章が小さく躍るのが見える。
「いや、あれはおそらく簡易救護所だね。怪我人を診ているんだろう」
「じゃあ、摩緒みたいなお医者さんがいるんだ」
 救護所は瞬く間に景色の中を過ぎ去っていった。菜花は車から顔を出して、いつまでもそれを見送っていた。


 用事を終えた摩緒が薬屋から出てくると、菜花と乙弥はまるで親を待つ子供のように、ガラス戸の傍にじっとしゃがんでいた。
「長くなるから、どこか見てきてもいいと言ったのに」
「手前もそう勧めたのですが、菜花さんがここから離れたくないようだったので」
 菜花は立ち上がってもまだ、乙弥の服の端をつまんでいた。何かに触れていないと不安らしい。
「だって、いつまた刺客が来るかもわからないし……」
「それはそうだが。来たとしても、こんなに人通りの多いところで襲ってはこないよ」
「でも、怖いんだもんっ。一瞬でも摩緒の側から離れたら、何か起こりそうで怖いのっ。──それ、ちょうだい。私が持つから」
 彼女は自棄になったように、摩緒の手から薬包の入った紙袋をひったくった。手持ち無沙汰になった摩緒はきょとんとする。
「刺客が狙うのは私だ。むしろ私の側にいたほうが、危険なのではないかな?」
「だから怖いんだよっ。もし摩緒に何かあったらって思うと……」
 菜花が目を伏せたので、摩緒はその表情をうかがおうとした。すると菜花は意地を張ってますます深く俯いてしまう。──もし摩緒に何かあったら。彼女に巣食う恐怖は、他ならぬ彼の身を案じてのものらしかった。
「そんなに怖いのなら、ずっと私の側を離れなければいいのに」
「うちに帰るのは別だもん。おじいちゃんが心配するし……学校も行かなきゃいけないし」
「──うん。そうだね。私は何もおまえを大正こちらへ縛りつけようというのではないよ。だから、今のは気にしなくていい」
 乙弥から鞄を受け取ると、帰りの車を拾うために大通りへ出た。彼の背を見失わないよう、五歩とあけずに菜花が後を追ってくるのがわかる。雛鳥が必死についてくるようで少しいじらしかった。用が済んだら診療所へ真っ直ぐ帰ろうと思っていた摩緒だったが、ふと寄り道していこうかという気分になった。
 進路変更のためにいきなり後ろを向いたので、菜花が体当たりしてきた。ぶつかった拍子に、彼女が抱える紙袋から薬包がぽろりとこぼれ落ちた。慌てて拾おうとする菜花を摩緒は手で制す。インバネスの裾が地面につきそうなほど身をかがめて落とした薬包を拾い上げた。
「ご、ごめん。落としちゃった」
「いや、今のは私が悪い」
 菜花は物珍しそうにそれを見ている。「トンプク薬」と書かれた薬包は、赤いダルマの意匠が目を引いた。
「これ、なんでダルマなの?」
「おそらく、験担ぎだろうね。ダルマは転んでも起き上がるから、風邪を引いてもすぐ治るように、ということではないかな?」
「ふうん。なんか、おまじないみたいだね」
 ──まじないか、と摩緒は薬包を見つめてしばし思いをめぐらせた。その使い手に善人と悪人が存在するように、呪いにも善良なものと邪悪なものがある。人を救済するための禁厭まじないと、人に害悪をもたらす呪術まじないとは、まったくの別物だ。
「こういうまじないなら、いくらでも世に広まってほしいものだね……」
 菜花が彼の目をじっと見上げている。ふと摩緒は、彼女が百年後の未来からやってきたと言ったことを思い出した。それはどんな世界だろう。九百年もの年月を経てきた彼だが、ほんの百年先の未来の予想さえつかない。他人の行く先を占うことはできても、陰陽師身の上知らずと言う通り、易者が自分の卦を作ることはできないのだった。ただひとつだけ、摩緒には揺るぎない確信がある。百年後の世界に、彼は生きてはいないだろう。
 同じ呪いを分かち合いながら、摩緒のいない世界を生きる菜花。その世界には、良いまじないだけが残っているといい、と彼は願わずにはいられない。邪悪な呪術によってもたらされる苦痛や因縁や悲劇は、前時代の人間である彼がすべて一手に引き受ける。そうした負の遺産をひとつとして菜花へ引き継がせはしまい、と心に固く決めていた。
 菜花はダルマの薬包を気に入ったらしい。とりわけて惜しいものでもないので、摩緒はひとつ与えることにした。
「ねえ、これって風邪薬みたいなものかな。苦いの?」
「苦いかどうか、自分で飲んで確かめてみたらいい」
「嫌だよ、絶対苦いもん!」
「良薬口に苦し、と言うじゃないか」
 飲んでもいない苦い薬をあたかも服用してしまったかのように、菜花は渋い顔をした。「いらないのなら、返しなさい」たわむれに摩緒が手を出すと、取り上げられないよう後ろ手に隠してしまう。
「これはお守りにするのっ」
「お守り?」
「だって、転んでも起き上がるって、なんか摩緒みたいでしょ。私もそれくらい強くならなきゃ」
 私のような者を手本にせずともよいのに、と思う摩緒だったが、健気な少女の決意を前にして、その心意気を削ぐようなことは言うまいと自制した。
 人間は強くできている。何度天災に見舞われようと、何度でも自分たちの力で立ち上がってきた。菜花とて同じだ。この先何度困難が彼女を襲ったとしても、その心を挫くことはできないだろう。土の中から生じたばかりの新芽のようなその強さが、やがて枯れ朽ちる時を待つばかりの摩緒には頼もしかった。ただひとつの希望の星のように、まぶしくさえあった。



20.05.27




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