われて月見る


 客人の膳をすっかり下げたのち、下女のひとりが静々と頭を下げてこう言い置いた。「今宵はどうぞごゆるりと。くれぐれも、戸締りをなさって、戸外へは出られませぬよう」不審を覚えたらしい弥勒が「何か不都合でも?」と訊ねれば、「なんでも、夜半に蝕が起こるそうですから……」いかにも不吉な予言のように、下女は眉を顰めた。
 かごめは何とはなしにこの会話を聞いていたが、襖が閉まると、寝支度を整える珊瑚に向き直った。
「珊瑚ちゃん、蝕って──月蝕のこと?」
 旅の荷包みを枕がわりにした珊瑚が、うんと頷く。かごめの膝でしきりに目を擦っていた七宝も、この話題への興味で眠気が覚めたようだった。
「おら、まだおとうがいた頃、月が欠けるのを見たことがあるぞ。まるで朔の日みたいに、真っ暗な夜じゃった」
「ほう、七宝は度胸がありますね。月蝕の光を浴びると、寿命が縮まるといいますが……」
 七宝は涙目になって震え上がった。「いや冗談ですよ、冗談。あっはっは」おなごたちの冷ややかな視線をやり過ごそうして、道化になる弥勒。
「月蝕か。おれは見たことねえな」
 さして感心のない様子で、それまで黙っていた犬夜叉が会話に参入してきた。
「月が欠けるのが、そんなに珍しいかよ? 嫌でも毎月見てるだろうが」
「朔と蝕は別物だろ。朔は決まった時に来るけど、月蝕はいつ来るのかはっきりしないんだから。──それにしても犬夜叉、あんた一度も月蝕を見たことがないなんて、嘘だろ?」
「そんなことで嘘ついて何になるんでい」
 憮然とする犬夜叉に、珊瑚は首を傾げる。
「あんた、一体何年生きてるのさ。一度くらいは見ててもいいはずなのに」
 かごめも妙な違和感を覚えて彼の顔を眺めた。けれど嘘をついているようには見えなかった。


 枕元の空気がゆらめいたような気がした。
 夢かうつつかそのどちらかに触れようとかごめが手を伸ばすと、果たしてそこに犬夜叉はいなかった。彼が襖に背をつけたまま仮寝をしていたであろう場所には、まるで彼自身の形代のように愛刀鉄砕牙が立て掛けてあるのみだった。置き去りにされた刀は畳の上にわびしい影を落としている。灯を消す時、しかと閉じられていたはずの戸がわずかに開いていた。その隙間から透き通った細布のような月の光が室内に打ち敷かれているのを見たかごめは、まだ、月蝕は始まっていないのだと思った。
 ふと、外で庭の白砂を踏む音がした。かごめは足音を忍ばせて縁側に出た。後ろ手で静かに戸を閉めながら、眼前に広がる夜景を眺めた。客間として一行にあてがわれた室は庭に面している。白砂は天の川のようにきらめきながら悠々と青松や芝の間を流れ、その庭を囲う築地塀の上に銀髪をなびかせて犬夜叉はたたずんでいた。
 食い入るように月を見上げていた犬夜叉は、かごめの匂いに気づいたのか、縁側をかえりみた。膝を抱えて座っているかごめが大きく手を振ると、遠くて定かではなかったが、珍しく笑い返してきたような気がした。
 犬夜叉は彼女に手招きをした。余程気分が良いらしい。かごめが手振りでそんなに高い所へは行けないことを伝えると、塀の上の彼が身をかがめ、高く跳躍した。犬夜叉の姿が月と重なった瞬間、かごめははっと目を見張った。真珠のように白かった月が、まるで彼の衣から色移りしたように、端から徐々に赤く染まり始めていた。
 間近に覗き見ると、犬夜叉の瞳はまさに月蝕の写し鏡だった。赤く開いた瞳がかごめをじっと見つめる。このまま妖怪化してしまう前に、その手に鉄砕牙まもりがたなを握らせなければと頭の片隅で考えるかごめだったが、どうしても彼から目が逸らせない。やがて犬夜叉は、無垢な子供のように笑って彼女の手を握った。一緒に来てほしくてたまらないという様子だった。いいよ、とかごめは頷いた。彼の瞳に喜びがきらめいた。
 月は蝕まれていく。
 犬夜叉はかごめを背に乗せ、夜空へ跳躍した瞬間、巨大な妖の姿へと変化した。驚いたかごめは、地面に振り落とされまいと必死に犬の首にしがみついた。犬夜叉は獣のように雄々しく吠えた。声は遠吠えのようによく響いた。その声が何やら得意げに聞こえ、かごめはつい緊張の糸がゆるんで、笑ってしまった。
「ねえ犬夜叉。私、月をこんなに近くで見るの、初めてよ。月蝕って、こんなに赤かったんだ。──あんたは、見たことがあった?」
 銀の毛並みに頬をすり寄せる。犬夜叉も、かごめに甘えるように鼻を鳴らした。半妖の姿なら、強く抱き締められていたかもしれない。
 犬夜叉は空を飛んでいた。地に足をつけて跳躍するよりも、はるかな高みを駆け抜けていた。彼に連れ立ち、かごめは蝕まれつつある赤い月を追いかけた。欠けていくように見えるが、犬夜叉にとっては、それは満ちていくものなのだと感じた。
 やがて夜空に突き出た岩山の峰に犬夜叉は静かに降り立った。月は、彼がその爪で空から抉り出すことができそうなほど近くにあった。犬夜叉は犬の姿になったり、半身だけ人に戻ったり、時折遠吠えを轟かせたりしながら、飼い犬のようにかごめの膝に甘えていた。月蝕が彼の妖力にどれほどの影響を与えているのか、その不安定な変化を間近で見守りながら、かごめは推し量っていた。
「きっと、こうなってる間のこと、あんたは何も覚えてないのね」
 彼は月の隠れた夜空をじっと見上げ、路傍に置き捨てられた犬のような鳴き声をかすかに発した。背中の美しい毛並みを指先で撫でてやりながら、かごめはその毛に自分の片頬をそっとうずめた。
「──でも、あんたは月蝕を見たのよ。──大丈夫、犬夜叉が忘れたって、私がちゃんと覚えてるから」
 

 屋敷を辞してしばらく経つが、犬夜叉はまだ仲間たちの執拗な審問から逃れられずにいた。
「いい加減白状しなさい。……昨夜はかごめさまと、どこまでいったのだ?」
「いやがるかごめに無理強いしたのか!?」
「……けだもの」
「だーっ、やかましい! 誤解だ、誤解っ」
 かごめは騒がしい背後をちらと振り返る。赤面する犬夜叉の顔にあの無垢な笑顔がつかの間重なり、かすかな笑みがこぼれた。



20.05.25
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