油断と隙



「おっ、千。いい食いっぷりだなあ!」
 隣のリンに豪快に背中をたたかれ、千尋は掻き込んでいる飯にむせた。悪い悪い、と笑いながら差し出された水をがぶ飲みして、またむせかけた。
「最近、食べても食べてもおなかがすくの……」
「そりゃ、ただでさえ食い盛りのチビなのに、こんだけ働きづめならな。飯櫃空っぽにしたって、不思議じゃねえよ」
 食え食え、と妹分の碗に甲斐甲斐しく飯をよそってやるリンへ、少女たちの視線が集中した。
「そういえばさ。千はまだなんじゃない?」
「──ああ、そうそう。あれのことでしょ?」
 沢庵漬けをぽりぽり齧りながら、同輩たちが姉妹のような二人を見比べる。「あれ」とは何だろうとにわかに不安に駆られる千尋の傍らで、リンが「ああ!」と何かひらめいたように手を打った。
「そうだそうだ! ──千、お前もここの仲間になったなら、やってみるべきだぜっ」
「なんのこと……?」
 少女たちの声が、一斉に答えた。
「『海老天の試し』だよ!」

 洗濯室の隅の方で、千尋は渡された紙をそっと開いてみる。そこには、新人が避けては通れぬという「海老天の試し」の詳細が記されていた。
「イズレカノ試練ヲ遂行セヨ。
 一、一天ノ扉ノ前デ大声デ歌エ。
 ニ、番台役ノ烏帽子ヲ拝借セヨ。
 三、湯殿ノ橋カラ湯ヘ飛ビ込メ。……
 遂行ノ暁ニハ褒賞エビテンヲ授ケル。」
 まるで子どもの悪戯のような内容に千尋は呆れてしまう。だが新入りは皆この試練を経験するものなのだと聞かされては、無碍にするわけにもいかなかった。ただでさえ人間であるということで、他の従業員から煙たがられている。仲間と認めてもらうには、言われたことを着実にこなし、地道に信頼を得るほかないのだった。
「五、帳場役ノ背中ニ貼紙ヲセヨ。──これだったらできるかな?」
 選んだそばから千尋は気が挫けそうになった。あの油断も隙もない背中に近づくことを考えるだけで、腹ごしらえしたばかりの胃が痛んでくる。
「でも、ちゃんとやれたら……」
 まかないに海老天をもらえるらしい。おかずが漬物だけの食生活にも、少し飽きてきたところだった。
 
 決意をかためてから、千尋は息を潜めて機会をうかがっていた。
 仕事中もいつも彼の気配を探している。けれど会いたい時にかぎって、なかなか出くわすことがない。あの人は神出鬼没だからと少女たちの誰かが言っていたが、まさにその通りだった。
「ハクさま──」
 ようやく昇降機を降りたところを見かけて呼びかけたが、気づいてもらえず、角を曲がったのを追いかけるも、もうその姿は見当たらなかった。
「あーあ。せっかく会えたのに……」
「誰に?」
 千尋は飛び上がるほど驚いてしまった。いつの間にやらすぐ真後ろに、確かにこの角を曲がったはずの尋ね人が何食わぬ顔で立っていた。
「呼ばれた気がしたのだけれど」
「う、うん。──じゃなくて、はい、ハクさま」
 慌てて言葉遣いをあらためる千尋に、ハクは上役の仮面を脱いで心優しい素顔を見せた。
「私に何か用事があったのかな。ここしばらく忙しくて、すまないね」
「ううん、全然……」
 千尋は「大入」の貼紙を背中に隠したまま、もじもじとうつむいている。彼の不意をついて「試し」を実行せねばならない後めたさから、まともに顔が見られなかった。
「ただ、ハクが元気かなと思って。それだけなの」
「私のことを気にかけてくれていたの? ありがとう。嬉しいよ」
 千尋の魂胆を知らないハクは、素直に喜色を浮かべている。
「私は元気だよ。千尋の顔が見られたから、もっと元気になった。これからまた一仕事、頑張ってくるよ」
 思いがけない言葉に千尋は顔を上げた。
「ハク、また出かけるの?」
「うん」
「どこに?」
「すぐ帰ってくるから」
「すぐって、いつ?」
「千尋が起きる頃までには、きっと帰るよ」
 思わず「試し」のことを忘れて、千尋は不安げな表情になる。
「……ハクがいなくなると、わたし、ひとりぼっちになっちゃう気がする」
「千尋はひとりではないよ。私がいなくても、もう仲間がいるだろう?」
「そうだけど、でも、やっぱりハクがいてくれなきゃやだ……」
 うつむく千尋に見えないところで、少年は参ったような、それでいて喜びを隠しきれぬような、初々しい戸惑いの表情をつかの間ちらつかせた。
「──いい子にしているんだよ」
 けれどそう一言かけた時には、すでにその顔はいつもの静かな微笑みだけをたたえていた。
 千尋は少し迷ったが、
「もう仲間がいるだろう?」
 彼のその言葉を思い起こすと、意を決して、去ろうとする背中にそっと貼紙を貼りつけた。いつまでもハクに甘えてはいられない。自分の居場所は、自分で作る。
「行ってらっしゃい、ハク」
 入れ違いざまに振り返ったハクが、ふと笑って、励ますように千尋の背中をそっと押した。

 大部屋に駆け上がるや、千尋は声高に宣言した。
「わたし、やりましたっ。ハクさまの背中に、貼紙をつけました!」
 寝支度をしていた少女たちが集まってくる。
「本当かよ! あのハクが油断したのか?」
「……そうでもないんじゃない?」
 先輩がくすくす笑いながら、千尋の背中を指差している。不思議に思い手を伸ばすと、どういう訳かあの「大入」の貼紙がくっついていた。
「ハクさまに隙をつかれたね、千!」
「しかも、『大入』が『大人』になってるわ」
「やだあ。まだまだ子供ねえ」
 そんなあ、と肩を落とす千尋。どっと笑う少女たちの間には、和やかな空気が広がりつつあった。



20.05.23
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